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日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

歴史は「おもしろい」が入り口

gendai.ismedia.jp

 

幼馴染で同い年でもある彼は、超歴史好きでしかも、受験生の時は全国模試でも上位トップ10にいつも入るくらいの実力派です。

とにかく詳しくて、一度彼と京都に旅行に行ったことがありますが、本当に最高のガイドでした。

言い伝えや由来などに詳しいので、観光地をめぐるだけでも、「へぇ〜」の連続です。

 

彼の家には小学生のころから幾度となく遊びに行っていましたが、彼の部屋は壁がすべて本棚で、その棚は殆ど歴史関連の本で埋め尽くされていました。

中身は少しずつ変わります。

小学生の頃はやはり歴史漫画なんかが多かった記憶があります。

中高あたりになると、ちょっとむずかしそうな本、そして大学になる頃には、読書好きの自分でもまったく歯が立たないくらい難しい歴史書が置いてありました。

めちゃくちゃ厚くて、めちゃくちゃ小さい字です。

あれはほとんど辞書レベルですね・・・

 

彼は歴史を勉強と思ってやったことがないそうです。

物心ついたときには歴史の漫画を読み漁っていて、とにかく面白かったとのこと。

周りの友達が週刊少年ジャンプを読んでいる中で、「たまたま」三国志を読み続けたわけです。

それを、先生を含む大人たちは「えらいね」とほめたらしいですが、なんで面白い漫画を読むだけでほめられるのかさっぱりわからなかったと言います。

 

彼は大学を卒業後、誰もが知る大手企業に就職しましたが、そこを数年で辞め、今は地方の歴史博物館で働いています。

三つ子の魂というやつでしょうか。

でも、私から見ても彼にはその職が天職のように思えます。

自慢の幼馴染です。

 

 

歴史は大切です。

ライフネット生命のCEO、出口治明さんが、時代の教科書は歴史の中にしかないと言っていましたが、本当にその通りですね。

それこそタイムリーに、対北朝鮮の緊張状態が続いていますが、そんな時にどういったことがおこる可能性があるのかは、やはり歴史を振り返らなければ全く予想できません。

 

しかしその大切さ、大事さ「故に」勉強しようと意気込める小学生はどのくらいいるのでしょうか。

多分ほとんどいません。

 

一方、私の幼馴染のように、幼少期に強く興味を持ったことは、社会に出た後も継続することは十分に考えられます。

 

つまり、歴史に興味を持たせる為には、幼少期において、歴史を学ぶ重要性よりも、エンターテイメント性の方を重視した教育をしたほうが良いと考えます。

 

実際私がそうです。

私が歴史に興味を持ったきっかけは、ベタですが、司馬遼太郎氏の竜馬が行くを読んでからです。

 

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

 

とにかく面白くて、8巻あっというまに読み終えました。

それから歴史小説にハマるのですが、一方でそれが史実とは違うということも知ります。

全く違っているわけではないのですが、史実をもとに作ったフィクションが歴史小説だということを知ります。

 

しかし、そもそも歴史小説がなかったら私は歴史に興味を持てなかったかもしれません。歴史小説は、他のフィクションと同じようにエンターテイメント性がしっかりあります。だから読みやすい。

それをきっかけに歴史の知識を深めていく、という流れは、そんなにエネルギーを使わずに歴史に興味を持てる方法の一つです。

 

私の幼馴染の場合は、それがずっとずっと早い年齢で起こったわけですね。

確かに、年齢は違えど今歴史小説を読んでいて、えらいねと言われても違和感たっぷりです。

読みたい本を読んで、何がえらいのか、と。

 

 ◆

 

冒頭の記事は、歴史教育においての問題点を指摘しています。

書いてあることは確かにそのとおりだと思います。

しかし、そもそも歴史が勉強の、テストのためにあるものだという概念を植え付けさせる教育自体が危険だと感じます。

そんな教育だと、寧ろ嫌いになる子もいるくらいですね。

 

音楽や文学などは、嫌いなら嫌いで別に構わないと思いますが、歴史はそうではありません。

特に近代史から学ばなくてはいけないことは多くあります。好き嫌いでは済まされません。

 

少なくとも教育現場では、歴史アレルギーの子をつくらないようにだけは注意してもらいたいものですね。

 

 

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頑張るは英語でなんと言うの?

waterman.hatenablog.jp

 

言語間の訳はそもそも「すり合わせ」で成り立っています。

例えば、同じ果物を指差して、日本人が「リンゴ」と言い、イギリス人が「apple」と言うので、リンゴ=appleなんだ、とすり合わせるわけですね。

何らかの言語が「基準」になって、それの日本語バージョン、英語バージョンがあるわけではない、ということです。

 

つまり、もともと日本にしか存在しないものは、それを表わす英語が存在しません。

すきやきだって天ぷらだって、もともと英語圏にはなかったので、そのままです。

もしあったら、訳ができるわけですね。ないので、音声をそのままにして表します。

 

モノの名前はまだ良い方ですが、感情表現となるとより難しくなります。

それが同じことを意味しているのかどうかのすり合わせが難しいからです。

美しいはbeautifulですが、そもそも美しいという感情に個人差があるので、すり合わせが難しいわけですね。

そんな言葉の代表は、切ない、わびしいあたりでは無いでしょうか。

これらの言葉を、日本人が日本語で説明するのですら結構難しいと思います。

寂しいとも悲しいとも違う、言い表しにくい言葉です。それが言葉本来の奥ゆかしさを醸し出しているとも言えます。

結果、英語や他の言語に訳すのが難しい。

 

 

ところで、日本人はとにかく頑張るという言葉が好きですね。

好きというか、とにかくよく使います。

娘はまだ未就学児ですが、どこで覚えてきたのか、頑張るという言葉はすでに多用します。

 

頑張るを英語に訳すると?

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Google翻訳で調べると、こう出ました。

これ、納得いきますか?少なくとも私は、何か違うと思ってしまいます。

 

実際、切ないやわびしいを日本語で説明するのですら難しいことと同じように、頑張るも実は説明が難しいと思います。

頑張るを国語辞典で調べてみます。

 

【頑張る】
① あることをなしとげようと,困難に耐えて努力する。「―って店を持とう」「負けるな,―れ」
② 自分の意見を強く押し通す。我を張る。「ただ一人反対意見を述べて―る」

これを聞くと、少しだけなるほどと思います。しかし、翻訳とはえらく違うと思うのは私だけでしょうか。つまり、切ないやわびしいと同様、訳しにくいわけです。なぜなら、日本人独特のニュアンスが含まれているからです。

 

意味の中の「困難に耐えて」という部分が特徴的ですね。頑張ると努力するの違いは、困難に耐えていることかどうか、ということです。

 

今日も一日頑張って、というのは、困難に耐えなくてはいけないことがありき、ということになっちゃいますね。

 

私は困難に耐えて努力することは良いことだと思います。一方、そうしないとだめかと言えば、そうも思いません。

困難に耐えなくても努力する人はしています。困難とすら思わないことに打ち込んでいる人は大勢います。なぜわざわざ困難に耐えなくてはいけないのかさっぱりわかりません。

 

テクノロジーの進化は、あらゆることを効率化します。

効率化は要するに、困難を減らしますよね。徒歩でしか移動できなかった時代に比べると、車や電車がある現代は、困難も少ない。つまり耐える量も少ない。ここだけ切り取ると、現代人は車や電車がないころの人に比べて頑張っていない、ということになりますね。

頑張っていないことが良くないのならば、テクノロジーは進化しなければしないほど良いということになります。いっぱい頑張れますよ。

 

 

私は、普段できるだけ頑張るという言葉を使わないようにしています。

今日も一日頑張って、と言いそうになったら、今日も一日楽しんで、に変えます。その方が前向きだし、気持ちが良い。そして、結果的にはなんにも変わりません

頑張るという言葉をどうしても使わなくてはいけない状況って、意外と少ないものです。

努力する、楽しむといった言葉に代用できる場合がほとんどです。

もし代用できない状況があったら、その頑張るの意味するところは、結構ぼやけていることが多い。

「今年も頑張りましょう」と年初に叫ぶ人もいますが、正直「何を?」と言い返したくなります。その具体性がなく、とにかく困難に耐えるということが独り歩きしているから、その言葉を多用してしまいます。もちろん、それは具体的であればあるほど良いのではないでしょうか。

 

 

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障害者〜特別扱いするべき線引き

私が通った小学校には、知的障害者のクラスがありました。

同じ小学校とはいえ、普段そのクラスの子達との交流もないし、クラスの場所自体も結構離れたところにありました。

全校生徒が700人位いる中で、そのクラスには確か10人くらいだったと思います。

 

年に数回、そのクラスの子達と交流するイベントがあります。

一緒に遊んだり、給食を共にしたり、といった具合です。

しかし、知的障害者だからという前に、普段から交流がない人と突然仲良くしろと言われても難しいものです。

私の娘をみて、それが幼稚園児ならば可能かもしれないとは思います。すぐに仲良くなる。

小学生にもなると、知らない人に対して若干の壁をつくるのは仕方のないことかもしれません。

高学年になればなるほど、その傾向は強まるのではないでしょうか。

 

 

小学4年生の頃のことです。

その時はイベント内容の中に、「会話」がありました。

といっても、知的障害者とスムーズに会話するのは難しい。

それで、質問をしてそれに答える、という最もシンプルなカタチになります。

私たちのクラスが知的障害者のクラスの子に質問をして、それに答えるという形式です。

質問内容の制約はとくに定められていません。

しかし、その内容は、まるで決められているかのようにとても簡単なものばかりになりました。

 

お名前はなんですか。

何歳ですか。

好きな食べ物はなんですか。

趣味はありますか。

 

知的障害者にも、障害のレベルがあるようで、これらの質問に余裕で答える子もいれば、理解できない子もいます。

そんな中、こんな質問がされました。

 

今度の連休はどこに遊びに行く予定ですか。

 

この質問を言い終えるのと同時くらいに、先生が質問者を制しました。

それは、そんなに難しい質問はわかるはずないので不適切、ということを意味する行動です。

確かに連休、予定といった言葉は、その前までの質問に比べると難度の高い言葉です。

結局、回答者が答えかどうかさえ分からないまま、次の質問にうつりました。

 

 

知的障害者は、私たちがその人達と普段交流が全くなくても、確実に存在しています。

私たちと同じ世界に人として生きています。

ところで、私達には色々な能力が備わっており、能力の優劣があります。

これが動物ならば、弱肉強食、自然淘汰という言葉で切り捨てられるのかもしれませんが、人は違います。

平等でない人びとを、公平にしようと試みます。

知的障害というくらいなので、知的能力に関しては健常者より劣っているのでしょう。

そんな知的障害者でも生きていける社会にすることを国家として理想に掲げています。

だから、障害者対策にも予算をつけるし優遇も作ります。社会的弱者を皆で支えようとしているわけです。

それがどのくらい機能ししているかはわかりませんが、姿勢としてはそうだ、ということです。

 

知的障害者に対して、難しい質問をしたら、そんな難しい質問には答えられない、と切り捨てられた。

この行為は、障害者を思いやっての行動なのでしょうか。

 

障害者でない人、つまり健常者ですら、難しい質問を受け、それに答えられず、あるときは恥ずかしい思いをします。

障害者である以上は、そんなことは避けられないし、その数も多いから、せめてコントロールできる場所では回避させてあげよう、という考えに基づいた質問制止だったのかもしれません。

 

でも、あれから30年くらい経った今でも覚えているくらい印象深い出来事であり、それは後味の悪い出来事だったのは事実です。

 

 

上記しましたが、能力の差があれど、一人でも多くの人が共存できるような社会というのが、少なくともこの国では理想だとされます。

しかし、平等を目指しすぎると共産主義になりますね。共産主義がうまく機能しないのは歴史が嫌というほど証明しています。

逆に自由競争になりすぎると、動物となんら変わりません。極論を言えば、殺されたって、殺されるほど弱いほうが悪い、となります。

人殺しは違法なので本当に極端ですが、経済力も同じですね。

日本の納税額は所得に比例した額になります。これによって、貧富の差が大きくなりすぎることを防いでいます。これがもし自由競争至上主義だと、低収入であることも関係なく納税させれば良いだけで、それでいくら貧乏になっても知ったことか、ということになります。

健全な社会とは呼び難いですね。

 

障害がある人は、健常者とは違うから障害者なんです。色々な意味で特別扱いせざるを得ません。

しかし、その特別扱いはあくまで、健常者も障害者も公平に生活できることを「目指して」なされるべきです。

こういった根源的な考えが抜けた行為は、障害者の自立を阻害することにもなりかねません。

 

今ならばそう思えますが、小学生の時はそこまで考えが至らなかったのが残念です。

 

 

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あなたの仕事は奪われませんか?

headlines.yahoo.co.jp

 

Amazon、凄まじい勢いでサービスを出してきますね。

知らなかったのですが、Amazonのロゴにある矢印

http://articleimage.nicoblomaga.jp/image/135/2015/4/5/453a34deaf892734c43e432c3187942257f7ff771424261932.jpg

このaからzに向かっている矢印ですね、これは、aからzまでのサービス、つまりなんでもやっちゃいます、ということを意味しているそうです。

 

私がAmazonを使い始めたのは確か15年くらい前だったと思います。

当時はAmazonというインターネット上の本屋さんというイメージでした。

本以外をAmazonで買うという発想自体がありませんでした。

 

それがいまやAmazonのサービスは

・書籍以外、様々なモノの販売(売ってないモノを探すほうが難しい)

kindle(ハード/ソフト)

・ストレージサービス(写真含)

・ビデオ見放題

・音楽聴き放題

など、あらゆるサービスを始めています。

また、プライム会員になればその多くのサービスが受けられます。

 

冒頭の記事は、Amazonがついに生鮮食品販売まで開始したというものです。

私の家では、近所にある大手スーパーでネット注文、配送してくれるサービスを利用しています。

この業界にAmazonが参入するということですね。

しかし、これまでのAmazonのサービス展開から予想するに、とんでもない様な形態のサービスを用意してきそうです。具体的には思いつきませんが。

Amazonダッシュボタンを知ったときはとても驚きましたが、将来的にはあれとの連携などもあるのかもしれませんね。

 

 

ユーザーという視点からすると、そのサービスが安く広く展開されることは嬉しい限りですが、自分の仕事と照らし合わせてみるとそうも言ってられないかもしれません。

 

最も良い例は本屋で、街の本屋は大手も個人店も今苦しい状況だと思います。それにAmazonが与えた影響は大きいでしょう。

家電量販店も小さな雑貨屋も然りです。

ビデオ見放題サービスは、DVD販売だけでなくレンタル、スカパーなどの有料多チャンネル放送サービス会社、さらには同様のビデオ見放題サービス会社であるhuluやNetflixにも大きな影響を与えています。

音楽聞き放題もそうです。ラインナップはspotifyapple musicに劣るでしょうが、他のサービスも色々ついているので、そんなに気になりません。

 

そして今回は街のスーパーを直撃します。子育て中、しかもどちらかの親がほとんど家にいない状態で買い物に行くのは何かと大変ですが、4時間で配送してくれるのならば使わない手はありません。正直少々高くても使うと思います。

 

次にAmazonはどんなサービスを始めるでしょうか。

コンビニや配送は既に構想中で、参入は時間の問題でしょうし、この勢いならば本当に全ての分野にからんでくるかもしれません。

そうなると、今働いている会社も影響をうけること必至ですね。

 

今のうちに考えておかないと、ことが起こってからでは遅い。

そして、どれだけ反対してもこの進化は止まりません。なんといっても合法内で自由に展開しているだけなので、止められるはずもありません。

 

しかし、天才ジェフ・ペゾス。

今から彼に対抗するべく、策を練って駆逐されることを回避できるような頭脳の持ち主はいるのでしょうか。

ぬるま湯につかった企業幹部が何人集まってもおそらくは勝てません。

 

恐るべし、ジェフ・ペゾス。

 

 

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結果を出した人を尊敬しよう、尊敬「したい」人を尊敬しよう

今週のお題「部活動」

 

小・中学生の頃までは、運動部に所属していました。うち中学は入部が強制だったと記憶しています。

音楽系の部活といえばブラスバンドを思いつきますが、ピアノを習っていたこともあり、重複するのでブラスバンドに入りたいとは思いませんでした。

もっとポップスよりな音楽系の部活があったら良かったのですが、当時は自分の行った中学に限らず、そんな部活はなかったと思います。

あるとすれば高校からですね。

今はどうなんでしょう。

 

私の体育会系に対するマイナスイメージ、発端はこの時期です。

運動もスポーツも全然嫌いではないし、むしろ好きです。それは今も昔も変わりません。

しかし、体育会系のノリは苦手です。

忌み嫌っているというレベルですね。

 

スポーツは心と身体を鍛える、これは本当にそうだと思います。

うち、心については、それが礼儀や礼節と強く結びつきます。

スポーツを通じて学ぶ礼儀や礼節は多い。

 

スポーツはおそらく、国に関係なく縦社会です。

つまり目上の人間には従うのが当たり前です。

しかし、目上、目下ってどうやって決まるのでしょうか。

結果を最も大切にするスポーツでは、目上、目下も結果によって決められるべきだと考えます。

つまり、良い結果を出している人間こそ尊敬されるべきです。

 

しかし、日本でそうなっているかというと、必ずしもそうはなっていません。

日本では、とにかく一つでも年が上なら尊敬対象です。

仮に結果を出していなかったとしても、年上ならば尊敬しなくてはいけないのです。

これってかなり変だと思うのは私だけですか?

 

年が上というだけで尊敬する、ということが、何かの役に立つのでしょうか。

その風習は社会人になっても続きます。

1年でも早く入社した人が尊敬対象になります。

その中を生きてきて、それが役に立ったと感じたことは、ただの一度もありません。

逆にこんな風習なくなればよいのに、と思ったことは数え切れないほどあります。

誤解のないように繰り返しますが、礼儀や礼節に対してではなく、年上というだけで尊敬しなくてはいけない、という風習についてそう思うのです。

 

そもそも、尊敬するというのは強制されるものではなく、自発的なもののはずです。

いや、もしかして戦時中やその後の復興、高度経済成長期などの社会不安定期において、四の五の言わずに従え、という強制が組織結束力を高めたという側面もあるでしょう。

しかし、今はそれすら選択肢の一つです。そうでなくても立派な組織は多くあります。

年の上下だけで立場が決まる、その感覚抜きには良い組織はありえない、というのは、はっきり言って古いし、ほぼ思考停止と言っても良いでしょう。

 

 

部活動の思い出は、できれば良い思い出であった方が良い。

そして、辛い経験でも、それを美談として話したほうが人は救われる気がするのかもしれません。

しかし、私はそうやって自分に嘘はつきたくない。理不尽な尊敬強制の思い出は、悪い思い出、辛い思い出です。

 

今後そう思う人が出ないよう、健全な部活動が続けば良いと思っています。

 

 

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勉強の本来の意味を私はこう考えます

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少なくとも私は今、勉強が好きです。

しかし、学生の頃から好きだったかというとそうでもありません。

おそらく学生で勉強が好きというのは少数ではないでしょうか。

この記事に掲載されている統計によると、

勉強嫌いの比率は、小1~6は20~30%台

とあります。これも間違ってはいないでしょう。勉強好き、嫌い、その間というのがあるということでしょうね。

私の学生の頃は、その間ですね。

 

そういう意味で考えても、やはり勉強嫌いが多いのは嘆かわしいことだと思います。

しかし、そもそも勉強とはどういう意味で使っているのでしょうか。

 

この記事に掲載されている統計はアンケートによるものですが、アンケートで「勉強が好きですか」と聞かれた場合、その勉強の指すものは、おそらく机の上で行う学校の勉強のことでしょう。

しかし私が、勉強嫌いが嘆かわしいと思う理由は、そういう狭い意味での勉強ではありません。

もし本来の意味での勉強が嫌いという状況ならば、ということです。

 

本来の意味での勉強、それはわからないことをわかろうとするために行うこと全て、です。

対象はなんだって良い。

机の上の勉強にかぎらず、なんだって良いと思うのです。

 

例えば批判対象になりがちなゲーム。

ゲームのルール、やり方、攻略法を学ぶことは、わからないことをわかろうとすることに違いありません。

もちろんスポーツも遊びもそうです。

わからないことをわかろうとするための行動を起こし、その結果出来なかったことができるようになる、理解できなかったことができるようになる、これが本来の意味での勉強です。

 

繰り返しますが、勉強嫌いが増えるのは嘆かわしい。

その意味は、わからないことがわかるようになるために行動を起こし、結果できなかったことが出来るようになるというところに喜びを感じない、ということに対して嘆かわしいと思う、ということです。

対象が何であるかが問題ではありません。

 

詰め込み教育では、勉強嫌いになるのも無理はありません。

本人が何に興味があるかどうかを無視して勉強の対象を義務教育という名のもとに狭め、その対象の成績を調べるためにテストを行い、そのテストの点数をあげる為の授業で行う。さらに、そんな狭い対象での成績でその子の成績が決まる印象があります。

これで勉強が好きになれと言われても無理があります。

好きになる子どもは学習の意欲が高く、方法も工夫している

こう書いてありますが、それはテストの成績をあげて人に認められたいという目的だけならば、私の言う本来の意味での勉強好きではありません。

私は勉強好きですが、テストもないし成績もない。勉強、テスト、成績がセットになっていると感じさせるのは、勉強嫌いをますます加速させると感じます。

 

勉強の楽しさは独りで完結するものです。役に立つからとか、人より優れているとかいうのは、勉強の好き嫌いとは別で考えたいものです。

 

人生全体だって勉強です。人生の成績ってありますか?

あるとして、それは普遍的な物差しで測れますか?

多分ムリです。何を持って成績が良いとするかは決められません。

あえて言えば幸福度のようなものかもしれませんが、それこそ限りなく個人的なものです。

 

 

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偽善と善行強要

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偽善は、善行のイメージ悪いバージョンです。

「偽」という漢字がそれを示していますね。

 

善行が偽善と非難される理由は何でしょうか。

 

例えば被災地の救助に関わる人々。

自衛隊、その他救助隊員はお金をもらって人助けの訓練をし、有事の際にそれを実践していますが、これは偽善ですか?

違いますね。それは仕事であり任務であり、そして責任ある行動でもあります。

これを偽善と呼ぶ人は少なそうです。

 

一方ボランティアはどうでしょうか。

偽善という批判は、どちらかというとこちらの方に向けられることが多いようですね。

人助けという、基本的には同じ行動ですが、明確な違いはボランティアが基本無償で行うものだということです。

 

寄付についても考えてみましょう。

あるものを店で購入して、お金を払う。これを偽善と呼ぶ人はいません。

しかし、困っている人に寄付という形でお金を払うと、その一部は偽善と非難されます。

 

これらの例をみると、不思議な事に気付きます。

「何か」と「お金」が交換されると、偽善ではありません。

どちらかしかないと偽善となります。

 

救助の例では、行動だけでお金が発生しないボランティア。

寄付の例では、お金だけでモノが発生しない。

そして、お金が発生したり、あるいはしなかったりということが、重要な要素として存在しています。

 

つまり、お金の価値観をどのくらい上位に置いているか、ということで偽善と呼ぶ人とそうでない人が分かれるのでは、と考えます。

 

救助の例では、人助けとお金を天秤にかけ、「お金をもらわずに人助けなんか割に合わないから、なにかしらの思惑や見返りを期待しているのだな」と考える人は、ボランティアの人々に対して、偽善という批判をするでしょう。

その証拠に、救助対象が身内や友人ならば、助けられた人からお金をもらわなくても偽善と呼ばれることは少ないでしょう?上に書いた天秤が、わかりやすく傾いているからですね。

 

寄付という形で人助けをすることも同じです。「何をもらえるわけでもないのに、人にお金をあげるなんて、なにかしらの思惑や見返りを期待しているのだな」と考える人は、寄付をしている人に対して批判をするでしょう。

これも同じで、親が成人した自分の子どもにお小遣いをあげること(行為自体は寄付とまったく同じです)を偽善と批判する人はいません。

成人した子どもにお小遣いをあげるという行為は、それはそれで甘やかしという問題もありそうですが、ここではフォーカスがブレるので割愛。

 

当ブログでは、何度も「お金には交換価値しかない」ということを書いてきました。

つまり、価値があるのはお金をつかって交換した何かの方だ、ということです。

上記の例で言えば、人助けですね。

だとすれば、有事の際、人助けの価値を最上位に置く人が多くいることは想像に固くありません。

 

一方、ボランティアや寄付を強要することも危険です。

 

ボランティア活動の強要はボランティアではなく徴兵です。

寄付の強要は寄付ではなく税金です。

違いを明確にしておかないといけませんよね。

 

 

人の善行を偽善と言って批判するのはいかがなものか、と思います。

同時に、善行強要も同じくらいいかがなものか、と思います。

ひとそれぞれ自分の出来ることを出来る範囲ですれば良い。それが秩序を大きく乱すものでなければ、個人に裁量が委ねられている、と考えることが重要だと考えます。

 

 

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