読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

健康診断を受けてきました

「健康診断」の画像検索結果

 

健康診断に行ってきました。

私の年齢以上だと、自治体が費用を負担してくれるので、無料で受けられます。

内容は測定、血圧、問診、心電図、血液検査、尿検査です。

無料の範囲なので、大掛かりではありませんが、それでも備えあれば憂い無し、です。

ありがたいですね。

 

私の年齢から無料ということで、当然そこで健康診断を受けている人は全て私以上の年齢です。

とはいえ、私のいくつか上という人はほとんど見当たらず、60代以上に見える方ばかり。

まあ私くらいの年齢で、会社の健康診断がなくて、平日に来られる人となるとかなり絞られるので、当然といえば当然ですね。

 

今回健康診断に行って思ったことを2つ。

 

まず、健康診断の担当員について。

偶然かもしれませんが、今日の健康診断の担当員は、全員体型がよくありませんでした。健康的とは言い難い。

めちゃくちゃ細いか、少し太めか、かなり太め。

ダメなことではありませんが、問診で

「身長、体重、腹囲などバランス良いですねぇ」

なんて言われると、何かしらの違和感があります。

あなたは?的な、、、

 

誰でも健康には気を使ったほうが良いと思いますが、健康に携わる職業の人はより気をつけるべきではないでしょうか。

 

次に、診断自体について。

 

私は正直、自分自身を健康だと思っています。

酒は飲まない、たばこも吸ったことがない、毎日快便快眠。大きな病気にもかかったことがない。

強いて言えば、運動量が若干不足気味かもしれません。

 

しかし、こういう人こそ危ない、なんてことをよく聞きます。

健康が故に、病院に行く機会がなく、気付いたら大きな病気が体内でかなり進行していた、なんていうやつです。

自分の身体は自分が一番良く知っているというのは嘘だと思うので、やはりプロの目に診てもらわないと、と考え、健康診断に行ったわけです。

 

なのに、診断自体は結構雑でした。

問診票を提出したり、私の体型を見たりした時点で、「あー、この人は大丈夫だな」というモードになっているのが伝わってきます。

しかし、上記したように、そういう人こそ危ないかもしれないので、雑にはしてほしくないんですよね。

それで雑になるというのは、自分自身で健康だと思っているから、健康診断なんて受けなくて良い、という思考と同じです。

寧ろ、「あなた、自分で健康と思っているでしょう、、甘いぜ」くらいの勢いで診断してほしいくらいです。

 

ということで、後日知らされる血液検査と尿検査の結果を待つのみです。

こちらは、雑とかそうじゃないとかはないので、結果が楽しみです。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com

 

思い出すきっかけとしての「何か」はあってもよいのかもしれない

f:id:famo_seca:20170511125424j:plain

※写真は、本文とは一切関係ありません

 

今日は休みだったので、まだ幼稚園に行っていない年齢の娘と2人でお出かけしました。

行き先はどこでも良かったのですが、普段あまりいかないところ、あまりお金がかからないところで絞ったところ、私の住んでいる地域で最も全国的に有名な観光地の一つになりました。

 

そこは、とある神社です。

 

ちなみにですが、観光地って地元の人はあまり行きませんよね。

その理由の一つは、近くにいるからいつでも行けると思ってしまう、ということだとおもいますが、私もまさしくそうです。

しかし、今日は平日で混み具合も大したことないので、行き先に決定しました。

混んでいると、子供連れは何かと大変です。

 

しかし、実は私の目的は、厳密に言うとその有名な神社ではありません。

そのすぐとなりにある、同じく神社ですが、あえていうならば有名ではない方の神社です。

全然有名ではありません。そして、とても小さい。

 

なぜこの神社を訪れたのかというと、私の中学時代の恩師の骨がそこに納骨されているからです。

 

 

その先生は、中学時代の自分にとっても「イケてる」先生でした。

顔が整っているとかいうわけではありませんが、生物の先生ということもあり、生物の話をするときは、先生というより寧ろ子どもの様に見えました。

スポーツ万能でいつも元気ハツラツ。でもって、体育会系の無駄な熱さはなく、スッキリした雰囲気です。

生徒と先生の距離感という意味でも今考えれば絶妙で、偉そうでもなければ、同じ目の高さというわけでもありませんでした。

 

中学卒業後数年経って一度、同窓会で会いましたが、それ以来会っておらず、次の連絡はお亡くなりになったという訃報でした。

普段の生活の中で頻繁に会っていた人ではないからなのか、冷静に悲しみました。

 

その恩師の骨が納骨されている神社が今日訪れた神社です。

 

 

私は、お墓や葬儀の存在意義には疑問を持っています。

誰かの歌の歌詞ではありませんが、故人はそこにいません。

だから、豪華な葬儀も、高価な墓石も、生きている側のエゴでしかありません。

そんな考え方なので、私自身の葬儀はしなくて良いし、お墓もいらないと思っています。

周りの人がしてくれるのは構いませんが、当の本人はそういう風に考えています。

 

しかし、故人を思い出すきっかけがあってもよいのかも、最近思うようになりました。

良くも悪くも、人は忘れていく生き物です。

故人のことは、「忘れてはいけないこと、ではない」かもしれませんが、「忘れたくないこと」である場合も多い。

私にとっての恩師もそうです。

 

それを思い出させてくれるのが、骨が納めてある場所だったりお墓だったりするのならば、それもありかなと思います。

 

もしわたしが故人の立場ならば(これは本当の意味での仮定ですが)、それをきっかけに子どもとおでかけしてくれる、というだけで結構満足だったりします。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com

 

楽をすること、休むことは、悪いことではありません

news.yahoo.co.jp

 

興味深い記事です。

と同時に社会全体で考えていかなければならない問題でもあります。

 

特に日本人が考えなくてはならない思える理由は、過労死です。

今は中国を始め様々な国で過労死が問題視されていますが、もともと過労死という用語さえ世界にない頃には、「karoshi」とそのまま表記するしかありませんでした。

そのくらい海外に比べて日本は過労死者数が多いということです。

 

実働時間だけでみると、日本よりも欧米の方が多い、という統計もあるようで、労働時間、労働日数だけで過労死の原因にすることは浅はかだと思いつつ、やはり無関係とも言えないでしょう。

 

記事中にもありますが、テクノロジーの進化と生産性は密接に関係あります。

コンピュータの普及がまだまだだった頃は、全て手書きで、今とは効率が全く違います。

ネットもない時代は、データを送るという概念がないので、本当に大変でした。

私はその端境期に社会人になったので、いかに便利になったかを強く意識することができます。

 

しかし、労働時間が減ったかと言えばそんなことはありません。

効率的に仕事すれば、必ず労働時間は減るはずですが、不思議ですね。

しかしこれも経験上、なんとなくわかる気がするのです。

 

以前いた職場で、大量の書類をコピーをする必要がありました。

書類は裏表で、裏表コピー対応の複合機が職場にはあったので、それを使っていました。

しかし、その量がものすごいので、トナーが減るのはもちろん、裏表コピーの際に時々起こるエラーも気にかけなければいけません。

当然、1ページでもずれると、全てやりなおしです。

これは非効率だと思い上司に、専門業者に出しましょう、と言いましたが、認められませんでした。

 

「お金を払って楽をしよう、という考えではいけない」

 

これが認められない理由です。

正社員だったので、時給ではありませんが、給料を時給換算することはできます。

試しにこのコピーにかかった時間からコスト(人件費、紙代、トナー代、電気代など)を概算したところ、専門業者に出したときの金額とほとんど同じでした。

 

大量のコピーをするという業務をその専門業者に任せ、空いた時間で別の業務をこなし、生産性を上げる、という考えに至らないのはなぜでしょうか。

または、その分早く帰宅し、家族と恋人と友人と有意義な時間を過ごすことができる、という考えには至らないのでしょうか。

 

答えは簡単です。楽することが悪いこと、休むことが悪いこと、という考えが根付いているからです。

 

いくらテクノロジーが進化し、仕事がより生産的になったところで、それはハードの話です。そのテクノロジーを使う人、ソフト側に、上記したような考えしかなければ、おそらく変わらないでしょう。

変わらないことによって、だれが得をするのでしょうか。

それは、これまでのやりかたを継続したほうがうまくいく、という根拠のないエゴで自身を自己満足させる効果以外は何も産みません。

 

どんどん楽をしましょう。

どんどん休みましょう。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com

 

芸術に勝ち負けは不要

headlines.yahoo.co.jp

 

音楽にさほど興味がない人でも知っているバイオリンの名器、ストラディバリウス。

その価格はとんでもないことになっています。

多くのバイオリニストは、演奏して報酬をもらい、そのお金をほとんどストラディバリウスの支払いに充てると言います。

 

そんなストラディバリウスの音が、現代製に負けた、という記事です。

負けたというのは、オーディエンスの中で現代製の方がよい、という意見の方が多かったということを意味しています。

 

音楽は、楽器も曲も音色も、何をもってして「良い」というかの基準がありません。

これは音楽に限らず、芸術分野はすべてそうです。

むしろ、それが芸術と呼ばれる所以とさえ言えます。

 

だから、この記事のように、多数決で現代製が勝ったということと、芸術的に、つまり楽器としてどちらが良いかということは、基本的には関係ありません。

 

 

芸術分野では、よく「本物」という言葉が使われます。

楽器で言えば、本物の音がする、などですね。

しかし、何をもって本物なのでしょうか?

 

私は絵画に明るくありませんが、モナリザくらいは知っています。

本物のモナリザを見て、例えば自分の子どもがそれを真似て一生懸命書いた絵があったとします。

ダビンチの本物のモナリザと、自分の子どもが真似て書いたモナリザ

この2つの、一般的な価値の差は比べ物になりません。

しかし、私にとっては後者の方が価値があります。

 

一般的な価値と個人的な価値に相違があってよい、ということがとても重要なんです。

前者のモナリザにも、それが書かれる色々な背景があるでしょう。

しかし、自分の子どもが真似て書いたモナリザは、その背景をありありと感じ、その感じ方のほうが私にとっては「本物」に近い。

自分の子どもが書いた本物のモナリザ、です。

 

芸術分野で使う「本物」というのは、こういうことではないでしょうか。

巷で言われている素晴らしいものと、自分が思う素晴らしいものに差があり、それらがどちらも独立して共存している、というのが芸術です。

 

芸術分野以外では、そうはいかないでしょう?

わかりやすいのはスポーツですね。

定められたルール内で好成績をおさめることを目指すのがスポーツです。

100mを10秒で走る人よりも20秒で走る人のほうが賞賛されることは絶対にありません。

 

 

記事では、「負けた」という表現を使っていますが、統計上現代製を選んだ人が多いという結果が出たというだけで、そもそも勝ち負けの問題ではありません。

 

あなたが良いと思ったものは、たとえ1万円のバイオリンでも良い。

あなたが良くないと思ったものは、たとえ1億円のバイオリンでも良くない。

それを判断できる耳をもっているかどうかなんて、大した問題ではありません。自分の感情に素直に従ってよいのが芸術であり、楽器であり、音楽です。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com

 

作りかけのレンガの家にまつわる物語は知らないけれど

f:id:famo_seca:20170508133430j:plain

 

私たちが住んでいる町には海があります。

そこから船で10分ほど行ったところに、小さな島があります。

コンビニが一件もない小さな島で、こちらからは橋もかかっていないので、交通手段は船しかありません。

それがかえって、その島のお出かけ先っぽさを手伝っています。

そんなに遠くないけれども、船でしかいけない島と村。

雰囲気あるでしょう?

 

それを気に入ってか、私の友人がその島に家を一軒借りました。

借り始めは数年前のことです。

船着き場から歩いて10分強。家が山の中腹にあるので、到着間際に訪れる上り坂はかなりしんどい。

それも、お出かけ先っぽさを醸し出す役割をしてくれます。

 

友人が借りた家の隣に、なにやらレンガ作りの家があります。

いえ、家ではなく、いずれ家になるだろう建物といったほうがよいでしょうか。

ようするに、作りかけです。

友人にその家のことを尋ねると、いつも明るい友人は少し悲しげな表情で、

「あの家の持ち主は、もう帰ってこないらしい」

と言いました。

 

そのレンガ作りの家は、なんとおじいさんが1人で作りはじめたもの。

写真掲載は諸事情により控えますが、とても1人で作れるようなものではありません。

玄関、窓、屋根、柱など、一つ一つがとても丁寧に、しかも凝った作りをしています。

おじいさんのなにかしらのこだわりなのか、柱のいくつかには、何語かわからないポエムのような字が刻んであります。しかも、どれも別のポエムです。

ゲートから玄関までの間も、レンガをきれいに敷き詰めてあり、足場は都会にある住居の快適さと変わりないほどです。

 

私の友人が家を借りた当初、実はそのレンガの家は、一部しか見えなかったそうです。

周りを草木が覆っていたためです。

それは、となりのトトロに出てくる家のような雰囲気だったと言います。

 

近所の人にその家のことを尋ねて、上に書いたように、おじいさんがひとりで作っているということを教えてもらった、というわけです。

 

と同時に、そのおじいさんが今は病気で入院中、退院することはできない病だ、ということも教えてもらったそうです。

 

友人は直接おじいさんに会ったことはありませんが、人伝にレンガ作りの家の掃除をしてよいかを尋ねてもらい、許可をもらいました。

 

この時点では、ちょっとした好奇心だったそうです。まだその全貌が見えていなから、当然その程度なわけです。

が、それが使命感のようなものに変わっていきます。

周りの草木を切っていくと、そのレンガ作りの家がとても丁寧に作られている、と気付いたからです。

私は、すでに草木がとりのぞかれた状態で見たのですが、それはおじいさんが趣味でなんとなく作ったという次元のものではないのは間違いありません。

 

なぜそんな家をおじいさんが1人で作り始めたのか、そこにはどうやら深い理由がありそうです。

 

まだ作りかけのレンガの家。掃除、整理くらいまではできましたが、さらに家造りを続けるとなると、相当の覚悟がいりそうですが、友人は気長にやってみる、ということです。

 

自分が住むわけでもない、誰も住まないかもしれない家を造ることは、生産的とは言えないかもしれません。

 

でも、なんかこういうのって良いですよね。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com

 

もっとも寒かった瞬間

f:id:famo_seca:20170507112221j:plain

 

夏生まれだからなのかどうかはわかりませんが、私は暑さに強く寒さに弱い。

寒さの方は、弱いだけでなく嫌いです。

つまり冬が最も嫌いです。冬の期間で楽しめるのは、年末年始の厳かな感じくらいで、それ以外の期間は早く過ぎ去ってほしいと、毎年心の底から思っています。

 

一方、だからなのか温泉は好きです。特に露天風呂なんか最高ですね。

暑い時に露店風呂に入るのも悪くはありませんが、やはり寒いときの方が、そのギャップのおかげで気持ち良い。

ちなみに、露天風呂が好きだから冬が好きという人もいますが、それはロジックとして反対ですよね。

 

日本の気候は決して過ごしやすいものだとは思いませんが、それでもとりあえず一年を通じて、常識的な気温内には収まっています。

しかし、露天風呂があるような温泉宿の中には、かなり山奥に位置するところもありますよね。

都会の喧騒から離れ、非日常を味わおうと思えば、ちょっとくらい山奥のほうが趣があってよいというのはわかる気がします。

 

しかし、山中の気温は平地とは違います。天気予報で確認できる気温予想は、大抵平地のもので、山中の気温はもっともっと低い。

つまり、寒いのが苦手かつ嫌いなわたしにとっては、過酷だということになります。

 

 

数年前の年末、温泉地として有名なところに妻と2人で旅行に行きました。

その年は、その地域の人に聞いてみても見たことがないというくらいの積雪と、その積雪量に比例するような寒さだったのです。

上記したように、それは露天風呂に入る気持ちよさが増すということになります。

 

美味しい夕食を食べ、お酒ものみ、少し酔いがさめた頃に、さあ露店風呂に行こうということになりました。

窓の外を見ると吹雪いています。猛吹雪というほどではありませんが、ヒューヒューと音がするくらいには吹雪いています。

 

旅の醍醐味は非日常です。こういう吹雪の時に露店風呂に入る、というのも良い思い出(というかネタ)になる、と思い、いざ露天風呂へ。

 

行ってわかったのですが、その露天風呂は、風呂だけでなく脱衣所も外なんです。

風呂に入ってしまえば寒くありませんが、服を脱いで風呂に入るまでの間は、極寒の中に裸、ということになります。

 

それは10秒くらいでしょう。長くても20秒。

この時間は通常ならば、たったの◯秒ですが、極寒の中だと恐ろしく長く感じます。

正直、人は寒さで死ぬんだということをありありと実感しました。

極端と思うかもしれませんが、本当にそう思ったのです。

 

極寒から湯船に浸かったときの気持ちよさはいうまでもありません。

しかし、寒さが苦手な私は、あんなに寒くなくたっていいじゃないか、と誰に向けてよいか分からない怒りを覚えました。

 

平地で生温く生活している私にとっては、まちがいなく人生で最も寒かった瞬間でした。

私はサバイバルにはとことん弱そうです。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com

 

会社に貼るポスターに対する考察

togetter.com

 

ありましたね、こういうポスター。

私が以前働いていた職場にも貼ってありました。

確か、「出来ない社員10か条」みたいなタイトルだったと思います。

内容はこれと似たようなものです。

 

会社には、その会社の目標や理念があります。

複数の人間が集まって働くにあたって、その会社の目標、理念は共有しておくべきでしょう。

お金を稼ぐことが目標の一つになっていることくらい誰でもわかっているので、それを除いて、最も大切にしている理念です。

 

理念を毎日考えながら仕事をするのは難しいですよね。そんなことを考える暇もないくらい、目の前の業務に追われている社員だらけです。

風が吹けば桶屋が儲かると言うように、本当は理念と目の前の業務もつながっているはずなのですが、それが見えにくい。

そうすると、いつしか理念なんて社員のアタマから消えてきます。

 

色々なものがロボット化している時代ですが、理念なく働くというのはロボットと何らかわりありません。

いえ、寧ろよりタチが悪い。なぜなら、人はサボるのが好きだから。

 

理念がなく目の前にある業務を、そこそこサボりながらこなしてく状況は、会社にとって良いはずもありません。

ですので、こういったポスターを貼るのでしょう。

理念を思い出せというのではありません。厳しく言えば、理念なんか忘れても良いから、とにかく業務に勤しめ、ということです。

 

実際に上記リンク先にあるポスターの内容をみてそう思いませんか?

ホウレンソウは私が職場にいた頃もよく言われていました。

しかし大事なのは、「何を」報告、連絡、相談するのか、「何のために」報告、連絡、相談するのか、です。

 

仕事は5つの気が大事、とあります。

本気、元気、勇気、根気、やる気。

これらも大事かもしれませんが、もっと大事なことは、それらの気を使って「何を」するのか、「何のために」するのか、です。

 

笑い話のような本当の話ですが、前の職場で、本社からお偉いさんが来るとなった時に、何をお土産に買って帰ってもらおうか、ということを真剣に会議で話し合っていました。

まさしく、5つの気を出して。

それって、会社の理念に沿ったものなんでしょうか?

 

 

そもそも、なぜこのようなポスターを貼る必要があるのかが疑問です。

上にも書いた通り、理念は何かに悩んだ時、判断基準の最終決定打になるかもしれませんが、そこに至るまでの手段、方法は各々が考えるべきです。

 

極端な言い方をすれば、上に書いた5つの気なんて全く無くたって、理念にかなった行動をとっていればそれで良いのではないでしょうか。

これは日本社会の悪い風潮で、これらの気を出して得た結果こそ本物の結果だ、というプロセスと結果をごちゃまぜにしたものになっています。

理念と結果が結びついてさえ入れば、プロセスには多様性があってよい。

むしろ多様性があったほうが、時代の変化にはついていきやすい。

 

 

会社に貼るポスターは、もっと漠然としたもので良いと思います。

働きやすい職場を作ろう、とか。

具体的には何を言っているのかさっぱりわかりませんが、そのくらいで調度良い。

でなければ、特にポスターなんか貼らなくて良いし、寧ろ悪くなると思います。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

famo-seca.hatenablog.com