日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

墓地のあり方にももう少しバリエーションがあって良いのではないか

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墓地には、どういった印象をうけるだろうか。

山奥にあって、盆や故人の命日におとずれてお祈りする所。

若者にとっては、夏の夜の肝試し場所なのかもしれない。

ちなみに、長崎の人に聞くと、盆と墓地とくれば「爆竹」だそう。

風習はいつも不可解だ。

 人の死は、いつも「不幸」なのか

先入観を捨てて考えてみれば、人が亡くなることは、不幸なこと「だけ」ではないはずだ。

人にかぎらず、全ての生物はかならず死ぬ。

だから、生まれた瞬間に死ぬことも決まっている。

世の中であまり使えない言葉「絶対」を使ってもよいレベルで死ぬ。

 

死が不幸なこと「だけ」で、そのうえ絶対に訪れるものならば、生まれた瞬間にすべての人が不幸を背負っていることになるが、はたしてそうなのだろうか。

 

確かに、まだまだ長く生きられるはずの人が、病や他の原因で亡くなることは本当に悲しいことだ。

しかし、生物としてのヒトと見た場合の寿命と照らしあわせて、充分な年齢に達した結果迎えた死は、不幸なこととは思わない。

実際に「大往生」という言葉もある。

明るい墓地はありえない?

にもかかわらず、やはり墓地は寂寥な感じを受ける。

要は暗い。

 

有名な歌の歌詞にもあるが、墓の中に故人はいない。

そこにあるのは、物質としての骨だけだ。

しかし、そこに行って故人に思いを馳せることができるのならば、その墓地にたとえ物質的な骨しかなくても、存在意義はあると思う。

それを機会に家族で集まるのも悪くないだろう。

 

だとすれば、もう少し墓地にもバリエーションがあってよいのではないだろうか。

小さい子供でも(もちろん大人でも)、墓地に行くのが楽しくなるような工夫が施されている墓地があっても良いと思う。

例えば、遊園地と一緒になっているとか、大型ショッピングセンターと隣接している、など。

 

これは選択的自由なので、既存の落ち着いた雰囲気の墓地もあって良い。

そういった墓地を好む人もいるだろうし、否定もしない。

 

しかし、その反面墓自体を作らないという人も増えている。

理由は様々だが、その原因の一つに、墓守の大変さがあるだろう。

放っておいたら雑草は生えるし、維持費もかかる。

そして、墓地は往々にして住宅地から離れたところにあるので、行くだけで一苦労だ。

 

土地代等の問題もあるので、そう簡単にはいかないだろうが、そもそもから墓地が薄気味悪い所、といったイメージがあるから、住宅地からはなれたところにあるのだ。

原因の発端は、死=不幸というイメージだろう。

自分ならこっちの墓を選択する

小さな子どもを連れて墓参りに行き、家族で笑顔と共に墓参り。

その後は隣接している遊園地や公園で遊んで子供も大人も大はしゃぎ。

こういったスタイルは許されないのだろうか。

(そこでお墓を持てば、遊園地や公園の割引が受けられるなどの抱き合わせがあれば、尚良い)

 

自分ならば、もし選択するとしたらこういった墓を選択する。

自分が故人の方でも、遺族の方でも、だ。

 

 

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