日々じゃーなる

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「当事者」の時代、を読んで

 

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

 

 

前々から読もうと思っていた本で、ついに読むことができた。
佐々木俊尚氏の本はどれも好きだが、この本は今まで読んだ中でもすば抜けて面白かった。
(もっと新しい本は既に読んでいるので、順序が逆になっている)

 佐々木氏の本との出会い

佐々木俊尚氏を知ったきっかけは、ソフトバンク孫正義氏との対談だ。
 
孫正義氏の経営手腕の素晴らしさは、結果をみれば明らかで、その人間形成のわずかでも良いので真似できないかと思い、孫氏の書籍や動画を見ていた。
そんな中でこの対談を見ることになる。
 
この対談は、大雑把に言えば、孫氏の構想に佐々木氏が疑問を呈するというものだ。
つまり、自分も孫氏を中心に見ていたので、佐々木氏は孫氏の反抗勢力の1人だったのだ。
何か新しいことをしようとすると、必ず反対する保守系ジャーナリストの1人だろうと思っていた。
 
しかし、対談を聞いて、それが間違いであることに気づく。
これも大雑把にだが、要するにこの二人の目指すところは、そんなに大差はないのだ。
その順序や手段において、若干の相違があり、それについて対談しているだけで、いわゆる「対決」ではない。
 
孫氏はさておき、それまで佐々木氏のことを知らなかった自分は、佐々木氏の本を読み始める。
 

ハマりすぎた自分が怖かった

 
自分でも怖いくらいハマった。
佐々木氏の主張はもとより、テクノロジー関連は佐々木氏を知る前から興味のある分野だったし、文体や構成も自分にかなり馴染んだ。
自分のニュースの捉え方や考え方にこれだけ近く、しかも自分とは比べ物にならないほど深い知識と情報量に、感動を超えて落胆すら感じた。
 
以前の投稿で、思想はできるだけ浮気をしたほうが良い、と書いたが、佐々木氏の本を読み始めて間もなく、これはヤバい、と感じた。
つまり、「佐々木教」になってしまう、と。

正解がないのが正解、とも言えないのが正解・・・?

しかし、この本を読んでいくらか楽になった。
 
それは、この本が何の解決方法も見出していないからだ。
本文中に、広場のない共同体や、本殿のない神社という例があがっているが、自分なりにシンプルにそれらをとらえると、モノゴトに絶対的正しさなんてないから、ずっと考え続ける(本文では闘うという表現を使っている)しかない、ということを示唆しているのだと思う。
だとすると、いわゆる「教典」のようなものがない。だから「佐々木教」も存在しないし、し得ない。
 
考え続けるという方法ですら、正しくもあり間違ってもいる、という無限ループの中に全てのひとたちは生きている、つまり全ての人が当事者だということを本書は述べているのだと思う。
 
少し前に書いた、道徳を教えることは不可能という投稿。
その中で自分は、ある事例を紹介し、それに対して子どもたちに意見や感想を発表させ、そのまま終らせるのが良い、と書いた。
 
それに補足をするならば、教育を施す方も、そのやり方がよいかどうかを考え続けるしかない、ということだ。
 
教育を受ける側も施す側も、何の答えもない中をさまようことになる、というのが結論だが、何度も言うがその結論ですら、正しいかどうかなんてわからない。
 
この本のレビューを見ると、「結局なにを言いたいかわからない」「長過ぎる」といった類のものもみられるが、もし佐々木氏がこのレビューをみているとしたら、シメシメと思うに違いない。
 
佐々木氏の本に限らず、どんな偉い人の説教ですら、それらの中に絶対的な答えを見つけることが不可能、つまりモヤモヤする、ということを書いているこの本は、つまり無限ループを文章で説明しようとしているので、どうしても長くなる。
 
だから、何を言いたいのかわからない・長過ぎるというのは、佐々木氏の想定内の反応だろう。
 
 
と言っている、このブログですら、正直何を言いたいのかわからないだろう。
 
つまり、そういうことだ。