日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

秩序保持は、空気を読んだのか、共同体意識なのか

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間もなく、東日本大震災から5年の日を迎える。
 
自分は被災者ではない。
先日の投稿で書いたとおり、被災者ではない自分が被災者の気持ちをいくら理解しようと思っても、絶対に不可能だ。
だとすれば、津波の映像や原発事故を見て「酷い、可哀想」と叫ぶことよりも、この震災から社会が何を学ぶべきかを考える事のほうが大切だと思う。

 

これだけ大きな震災だけに、学ぶべきことも本当に多くあるだろう。
 
その中で、自分は日本人の秩序に着想した。
 
震災が起きた後、被災地では強奪や便乗値上げなどがほとんどなく、被災した瞬間のパニックを除けば、秩序が保たれていたということだ。
アメリカを襲ったハリケーン「カトリーナ」の時と比較されることは多いが、その差は歴然。
被災者を助けに行ったレスキュー隊は、被災者から罵声を浴びることが多かったアメリカだが、日本では同じ状況で「ご迷惑をおかけします」と言われた人も多い、というのは有名な話だ。
 
なぜ日本では、このような非常事態でも秩序が保たれたのか。
なぜ日本では、パニックは最小限に抑えられたのか。
 
この議論は当時も、そして今でもよく耳にするし、記事でも見かける。
 
民度が高い、と一言で片付けてしまうのは簡単だが、それでは他国の人に対する見本にならないし、民度というの言葉も、知ってはいるがイマイチ理解できない。
だから、もう少し掘り下げて考えてみる。
 
すると、島国、単一民族といった言葉が大抵の場合出てくる。
上記理由により、価値観がそろいやすく、共同体意識が高い、というロジックだ。
 
これは的を得ているし、実際そうだろう。
しかし、こういったことは、無意識下のものであって、表面的にこういったことを行動原理にしている人は少ないのではないだろうか。
 
では、表面的にはどういった行動原理なのか。
それは「空気を読んで」いる、と考える。
 
空気を読むことと、共同体意識は、ある部分は共通している。いやむしろほとんど共通しているのかもしれない。
しかし、全くイコールではないとも思う。
自分が思う最大の相違点は、それを「プラスのイメージ」でとらえているのか否か、というところだ。
 
空気を読むことは、別に悪いことではない。
しかし、空気を「読まなければならない」となると、空気が人に(結局は人が人に)強要していることになるので、問題が出てくる。
そして、空気を読む、読まないの議論は、いつもここが争点になる。
 
共同体意識は、基本的にプラスのイメージのはずだ(違うのかもしれないが、自分が使うこの言葉は、少なくともそういう意味だ)。
共同体の最小単位である家族を考えると、身内のために何か行動することがマイナス的な義務であることは少ないだろう。(あくまで「マイナス的な」という条件付き)
 
震災の時に、秩序を保ち続けられた日本人は素晴らしい。
本当にそう思う。
 
しかし、それが「空気を読んで」、もっと言えば「空気を読まなければならなかった」という雰囲気によるものであるとしたら、別の場面では、悪い空気を読むことにもなってしまう。
好戦ムードだった戦時中の日本のように。
 
共同体意識は、上述したように、その多くは「空気を読む」ことに近いかもしれない。
しかし、自分の考える共同体意識は、たとえ空気を壊すことになっても、その場でまったく逆の行動や言動をすることは、それが建設的なものであれば許容される、といったものだ。
つまり、状況によっては「共同体意識が強いためにあえて空気を読まない、壊す」といったことがあるという意味だ。
 
日本人の行動、言動が「空気を読む」ことではなく「全体を良くするためのゆずりあい」に起因するものであれば、素晴らしいの一言に尽きる。
しかし、行動、言動の根本要因は、その本人ですら(勿論自分でも)認識しにくいのも事実だ。
 
つまり、こういったことを考え続けること、しか方法がないと思う。