日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

教育にエンターテイメントを

f:id:famo_seca:20160325003256j:plain

先日バラエティー番組で、桃太郎電鉄というゲームのことをやっていた。
若いころ自分もこのゲームでは遊んだ事があり、恐らくいまでは相当進化しているのだろうが、おおよそのところは分かる。
 
簡単にいえば人生ゲームで、そのマス目を日本地図上の(たまに海外の)駅に見立ててある。
 
この番組でも言っていたが、このゲームの良い所は、ゲームを作った人が、その足で本当に全国を旅して得た知識をふんだんに盛り込んでいるところ。
大人になった今ならばわかるが、作者の旅好きが非常に良く反映されているゲームだ。
そのおかげで、その土地の物件項目が、本当に当地に根ざしたものとなっている。
また、九州には台風が来るので、その際に物件を失くす、といったこともある。

 

自分もそうだし、周りにも結構いたが、このゲームをしたらとにかく日本地理の知識が増える。
しかも、基本ゲームなので、そんなに覚えるのに苦労はしない。
 

勉強は面白くないものなのか

 
このブログでは何度も言っているが、勉強を面白くないもの、楽しくないものにしているのは、教育者ではないだろうか。
人は不思議なもので、義務感を感じたり命令されたりすると、なぜか反発したくなる。
しかし、学校では勉強はしなくてはいけないもの、つまり勉強が義務となる。
その結果、勉強が嫌いで楽しくないものとなってしまう。
 
しかし、勉強の目的は、それをしている人を苦しめることでは決して無い。
知識や知恵を得るためにする。
だとすれば、その手段は決して義務的なものでなくても良い。
ゲームで日本地理を覚えても、何も問題はない。
 
また、大河ドラマ坂本竜馬をみれば、当時の時代の動きは自ずとわかる。
教科書に書いてある内容よりも、よりダイナミックに理解できるだろう。
 

勉強は一生やるものだから楽しむべき

 
思うのだが、学校の教育には、エンターテイメントの要素があまりにも少なくないだろうか。
 
それは、勉強は苦労してするもの、努力してするもの、という前提があるからではないだろうか。
 
勉強にそんな定義はない。
勉強は何を始めるにも必要な行為で、それは大人になっても一生続く。
 
大人になって勉強ができない人は、勉強自体をする学習力がないのではなく、勉強に対する嫌悪感が強すぎるだけのことが多い。
それは、初等教育から勉強の要素にエンターテイメントの要素が少なすぎるからだと断言したい。
 
実際に、大人になって「学生の頃嫌い、苦手だった科目」を聞いた時、その科目が嫌い、苦手だった理由の多くを占めるものに、担当の先生が苦手だった、ということがある。
 
理屈だけで考えれば、教育者に対する好き嫌いと、その科目自体の面白さに関連は無い。
しかし、それが影響してしまう、ということが上記から読み取れる。
 
従って、勉強をするうえでは、それを学んでいる「状況」が与える影響を無視できない。
少なくとも、それが試験のためにやらなくてはいけないこと、というものならば、試験を受ける必要がなくなったあとにその科目に興味を持つ可能性はずっと減る。
 
当然これは喜ばしくない。
 
教育にエンターテイメントの要素を取り入れるのは、生徒を過保護に扱いすぎている、という主張を聞くこともある。
しかし、義務感を与えれば良い、という考えの教育者の方こそ、効率的な教育方法の模索という行為を怠っている、つまり教育者の過保護に繋がるのではないか、と感じる。