日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

教育現場における自主性とは

 
自分自身も、中学校の頃は部活動に入っていたが、それをとりまく状況を客観的にみることなど当時は到底出来なかったので、ある程度の大人になって改めてこの状況を聞くと、驚いてしまう。
 
リンク先にもあるように、自治体によっては強制的に加入させている状況とのことだ。
 
一方、教育現場では「自主性」という言葉もよく叫ばれる。
部活動強制加入と自主性のある人間教育について考える。
 

義務教育で自主性

 
日本においては、中学までは義務教育だ。
自主性といっても、なんでもかんでも自由と言い始めたら秩序が崩壊してしまうし、自由と自主性は似て非なるものだ。
ということで、中学までは、たとえ本人が嫌がっても、学校に行かなくてはいけない、という決まりになっている。
 
しかし、2015年度の統計でみても、日本には350万人の中学生がいる。
350万人もいれば、その中には当然学校に行くのが嫌な生徒だっているはずだ。
 
これを完全に解決することは出来ないにしても、問題を軽減する方法は考えられる。
その一つが、義務内容に幅をもたせることだ。
 
学校の存在意義は色々とあると思うが、自分が思う最も良い面は、自分と同じ年くらいの「他人」と接することによって、人のバリエーションを実感できること、だ。
大人になって社会に出れば、世の中にはこんなにもいろんな人がいるのだ、ということに嫌でも気付かされる(別に嫌ではないが)。
姿形はもちろん、考え方や生き方も、独りの想像をはるかに超える人達がいる。
そういう人たちに出会う最初の機会が学校。
家族や親類以外と、様々な行動をともにしたり、同じ時を過ごしたりする初めての他人は学校の事が多い。
 
しかし、これを把握し間違えると、学校が職場のような強制組織になってしまう。
学校は「体験」組織であるほうが望ましいのではないだろうか。
 
つまり、上述した様々な行動をともにするといったことや、同じ時を過ごしたり、ということは、全員に強制されるべきではないと思うのだ。
みんなでサッカーで遊んでいる中に積極的に入っていく人、それを傍観している人、どちらもありだが、どちらの人もいる、ということを知る事自体がもっとも重要だと思う。
 
友達を100人作る必要はないが、人のバリエーションは、何百人でも知っていたほうが良いと思う。
 
この考え方で部活動を捉えると、そこを強制するなんてとんでもない。
例えばそれがスポーツの場合、スポーツが得意な人、苦手な人、好きな人、嫌いな人、参加するのが好きな人、見るのが好きな人など、様々な人がいて良いではないか。
 
第一、中学で選択できる部活動種目以外に没頭しているものがあったとしても、中学で与えられた狭い選択肢の中から選ばなくてはいけない理由はあるのか。
 
リンク記事中に、「人間形成にとって必要である」とあるが、部活動をしない自治体下の学校で部活動に入らず大人になった人は、人間ではないのか。
もしくは、部活動経験の有無で、その後の人生に影響が出ているというエビデンスでもあるのだろうか。
(例えば、部活動未経験者は犯罪者が多い、など)
 

自主性の根幹は「考える」こと

 
自主性の重要性はどんな教育者も認めるところだろう。
そして、自主性の根本は「考える力」だ。
何かを強制的にやらされると、自主性が育たないところか、むしろ低下する恐れすらある、と危惧してしまう。
 
ちなみに、これ以外にも全く別の問題がある。
部活動は、学習指導要綱上では強制ではなく、自主的にやっている(顧問も、生徒も、だ)とみなされているので、顧問(つまり先生)への給料は、必要経費以外はほとんど出ない。
出たとしても、拘束時間と照らしあわせ、それを労働とみなしたとしたら、あきらかに最低賃金を下回る金額しか支払われない。
これも非常に大きな問題だが、今回は視点がぼやけるので、別の投稿で改めるつもりだ。