日々じゃーなる

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舛添氏辞任に関して

ついにというか、やっとというか、舛添氏が辞任する運びとなった。
ベッキーの不倫とは違い、国民(都民)の代表という立場である政治家の不祥事なので、「どうでもよい」とは決して言えない内容だ。
 
非難すべきことはしっかり非難すべきで、その結果辞任ということならば、これは致し方無い。
 
とはいうものの、あまり叩き過ぎるのも考えものではないだろうか。
 

猪瀬氏辞任の時を振り返る

 
前回猪瀬氏が辞任したときも、もうやめざるを得ないというところまで、マスコミが徹底的に叩いた。
マスコミに反応し、世論も大きく猪瀬氏を辞任させる方に動いた。
今回と同じだ。
 
前回猪瀬氏が辞任したこと自体が適切だったかどうかに関しては、自分も意見をもっているが、焦点がぼやけるのでここではそこには触れないでおこう。
 
猪瀬氏を辞任させ、そのあと選挙で舛添氏に変わる、という流れで、都政がより良いものに変わっていくのならば、当時の猪瀬氏批判、その後の辞任にも大きな意義が出てくる。
たとえそこに、都知事選費用の50億円がかかったとしても、だ。
 
しかし実際のところはどうだろう。
本当に猪瀬氏を批判し、辞任させ、50億円かけて都知事選を行い、舛添氏が都知事になったことによって、都政はよくなったのだろうか。
 
いや、よくなったかどうかではない。
よくなっているかどうかにちゃんと期待していたのだろうか
 
叩き過ぎる状況を見ていると、より良くするための前向きな非難よりも、非難すること自体が目的になっている気がしてならない。
 
ジャーナリズムの基本は批判精神だと思っている。
特に政治という大きな権力をもっている人や組織に対しては、批判精神をもって監視してないと、その権力の膨大さ故に暴走してしまうことが多々あることは、歴史を見れば明らかだ。
 
しかし、もう一歩考えを深めると、その批判や非難は、その後「よくなること」を目的であるのは自明だろう。
 
戦後自民党が政権をとって政治をするなかで、野党は与党批判だけをしていれば良いという時代もあった。
この辺は、佐々木俊尚氏の「当事者の時代」に詳しく書かれてある。

 

「当事者」の時代 (光文社新書)

「当事者」の時代 (光文社新書)

 

 

 
しかし、高度経済成長期で、政治の比重が軽くなった時代と現代は、全く違う。
 

批判、非難の目的を、前回から学ぶべき

 
今回の舛添氏辞任に至るまでの叩き方はどうだろう。
内容や理由こそ違うものの、状況としては猪瀬氏辞任の時と非常に似ていると思う。
 
前回そういった経験を都民がしているのならば、今回は、非難が目的の非難ではなく、前向きな非難にしてほしいと願う。
非難の先に改善、すくなともそのベクトルがあるべきだ。
 
舛添氏が不適切に使用した金額よりも遥かに大きなコストをかけて都知事選を行うに際して、その費用は税金で賄われる、ということをしっかり認識して、積極的に、批判精神をもって、政治・政治家を監視してほしい。
 
 
まぎれもなく、政治家、特に国会議員は、国民の鏡だ。
政治家の不祥事は、それを選んだ人たちの人を見る目のなさや、そもそも選挙にすらいかなかった「無関心」も、その原因の一端となっていると言わざるを得ない。