日々じゃーなる

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評論家やジャーナリストは、もう少し評価されても良いのではないだろうか

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評論家やジャーナリストという人たちの本をよんだり、話を聞いたりするのがすきだ。

しかし、評論家やジャーナリストは、口だけ・言うばかりと批判されることも多い。
評論家のようになってしまってはダメ、といった注意の仕方もあるそうだ。
しかし、それは批判の仕方として間違っていると思う。
 

評論家、ジャーナリストの知識豊富だが、実行はできない

 
評論家やジャーナリストは、その分野のことを非常によく勉強し、知識を持っている。
時にその勉強量や知識量は、実行しているひとをも上回ることもある。
例えば政治に関して言えば、政治家よりも政治評論家の方が知識が豊富、というのは多々ある。
 
しかし、知識しか持っていなくて、実行可能かといえばそれは別だ。
知識を持っていることと、実行できるかどうかは別の問題。
そして、評論家やジャーナリストは、実行しないから評論家やジャーナリストなのだ。
 
そもそも、実行するためには、実行するための労力や時間がかかる。
その時間が不可欠なので、勉強だけに時間を割けないのが現実だ。
それに、実行する当事者故に、得る知識や、主張にもバイアスがかかることは避けられない。
 

実行者でない事の利点

 
では、勉強で得る知識には意味がないのかと言えば、そんなはずはない。
上述したように、バイアスがかかった知識、主張は、時としてその方向を間違った方向に導く。
実行当事者ではないからこそ得られるフラットな情報、フラットな意見は必要不可欠で、それができるのが評論家やジャーナリストだ。
 
また、評論家やジャーナリストは時にオピニオンリーダーにもなり得る。
ポイントは、評論家やジャーナリストは1人ではないから、評論家やジャーナリストの数だけその意見があり、自分たち庶民は、その豊富な知識に裏打ちされた、バリエーション豊かな意見を聞くことができる、という点。
ここでも、上述した、フラットな情報というのは求められるのは言うまでもない。
 
やはり、どんな分野であっても、歴史に名を残す偉人というのは、なにかをやり遂げた人が多く、そういう点で言うと評論家やジャーナリストは地味な存在かもしれない。
しかし、表舞台で名声を得ることだけが素晴らしいことではない。
評論家やジャーナリストがいたからこと、実行当事者が間違った方向に行くことにストップがかかったことも、歴史上には多々あるはずだ。
 
しかし、それは大きなイベントとしてはあまり取り上げらない。
残念だが、そういう立ち位置が評論家、ジャーナリストというものだ。
そして、自分はそんな評論家やジャーナリストに敬意を払っている。