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日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

SNSでの書き込みは、どこまで許されて、どこから規制されるべきなのか

今朝のニュースだ。
このデマ自体は震災時に少し話題になったので知っていたが、犯人が特定され逮捕となったとのこと。偽計業務妨害罪にあたるという。
 
直接の関係はないものの、このニュースを聞いた時、3年ほど前にあった、アルバイトが職場で冷蔵庫に入っているところを撮影し、SNSに投稿した事件のことを思い出した。
あの事件では、賠償請求額が2000万円のものもあった。
 

規制が弱いことのメリット

 
インターネット、SNSは、テレビやラジオに比較すると、国の規制が少ない。
その理由の一つは、単純に規制しようと思っても不可能、ということと、もう一つは、その規制が少ないことのメリットもあるからだ。
 
規制が少ないことのメリットを考えるためには、逆に規制を強くした時の弊害を考えれば分かり易い。つまり、SNSに比較して規制の強いマスメディアの、規制が強いことによる弊害が何か、ということだ。
これは言わずと知れた、情報操作、情報統制の問題。つまり、規制する方(政府や権力保持者)に都合が悪い情報は流さない、といったことが出来てしまう、ということ。
中国国内では、民主化クーデターである天安門事件のことをGoogleで検索してもヒットしないように情報統制をしている。
これが健全なはずがない。教材は過去の歴史の中にしかないのに、それを故意に伏せているのはどうみても不健全だ。
 
日本では、中国のようなネット上の情報統制は行われていないので、マスメディアが伝えない情報がネット上に出回ることも多々ある。
在特会ヘイトスピーチ問題などは、ほとんどマスメディアは報道しないだろうが、動画サイトではすざましい再生回数を記録している。
また、福島第一原発の事故の時、爆発の様子をマスコミ(つまり政府)は「混乱を避けるため」という理由ですぐには流さなかった。
その映像は海外の動画サイトから流入してきて拡がった。
 
混乱を避けるために情報統制をしたほうが良いのか、事実をストレートに伝えたほうが良いかは、その事案によって判断が割れるが、少なくとも、視聴者にはその選択肢があることは良いことだと考える。
 

愉快犯によるデマ投稿は、弁明の余地なし、だが

 
冒頭の記事にもどる。
震災という緊急事態において、悪ふざけで行われた投稿による混乱は許しがたいし、その被害をもっとも大きく受けた動物園側に、何かしらの責任があるかというと、全く無い。
従って、これは最低限の規制範囲内と捉えて差し支え無いだろう。
 
一方、アルバイトの冷蔵庫写真投稿の件に関して、社会は当時その投稿者を一斉に攻撃し、高額な賠償金が提示されても「ざまあみろ」といったコメントが多くを占めた。
詳しく調べてはいないが、当事者の人生はめちゃくちゃになったはずで、いわゆる社会的制裁を受けた形になったのだが、それが本当に良い解決方法だったのかには疑問を感じる。
良くないこととはいえ、あの程度のわるふざけは、どんな時代にも一定数存在するだろう。
SNSが無い時代だったら、屈折した武勇伝のネタで終わり、SNSの時代だったら、人生が終わってしまうほどの社会的制裁を受ける。
SNSにより拡散されたことで被害が拡大したということが、その社会的制裁を正当化する材料になっていることは自明だが、焦点が極端にその方向にいきすぎて、そういったアルバイトを人事した企業側の見る目のなさや、正規雇用を人件費削減という名のもとに減らし、それを安い人件費ですむアルバイトに変え、それでも業務内容や責任は同等、といった企業的態度が招いた、という側面は無視できない。
(あんな写真をとることができるのは、そこに監督責任を持つ者を配置しなかったからだ)
 

規制は少ないほうが良い。そのボーダーはいかに決まるか

 
誰もがスマートホンを使って静止画、動画を撮影し、その数秒後には世界に向けて発信できる時代において、受信する側に求められるのは、それをどう受け止めるか、だ。
受け止める側が賢くなればなるほど、その規制は少なくて済むし、結果健全な情報化社会に昇華していく。
反面、冷蔵庫事件のように、ある人間を叩きのめすための材料として情報を受け止める人間ばかりになれば、やはり規制を強めなければいけない。
混乱するから、情報を伏せておこう、という、いわば民衆を馬鹿とみなした策が講じられることになる。
 
SNSでの書き込みは、どこまで許されて、どこから規制されるべきなのか。
そのボーダーは流動的だ。
そして、そのボーダーを決めるのは、個人の集合体である社会の賢さに他ならない。