読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

親の責任、子の責任

教育 考え方
高畑裕太容疑者の報道が過熱している。
二世タレントの性犯罪なので、過熱しないわけがない。
 
この容疑者をバッシングし続けても何も生まれないし、本当にバッシングして良いのは被害者と、これにより間接的に被害を受けた人たち(ドラマやCM関係者など)だけだ。
 
このニュースから考えなくてはいけないことの一つは、親の責任、子の責任。
報道陣のカメラに向かって「申し訳ありませんでした」と何度も頭を下げている高畑淳子氏に対してネットでは、成人した息子の犯罪だから、親には責任は無い、といったコメントも見られる。
 
少し前に有名になった、違法ではないが適切でないことが原因で社会的制裁をうけた人がいたことを思い出す。
 
確かに法的には、20歳を超えた人の犯罪に対して、親の責任は問えない。
しかし、法律ではどこかに線引を明確にしなくてはいけないので、その線引を20歳にしているだけだ。
 
常識的な感覚をもっていれば、19歳ならば親の責任が問われ、20歳になったその日に突然責任がなくなる、ということに違和感を感じるだろう。
 
一方、では極端に考えて、60歳くらいで犯した犯罪に対して、その親にも責任を、社会的に問われるのか、といえば、それはもうどう考えても自己責任だ。
 
では、法律ではなくて皮膚感覚で何歳くらいまで親の責任があるのか、これがひとそれぞれずれるので、いろいろな意見が出る。
 
しかし、ここで最も大切なのは、親の責任と子の責任は、社会としてどちらにということの前に、各々は各々で責任を感じなくてはいけなくて、それはそれぞれ独立しているということ。
 
親は、自分の子が20歳を超えても、子の責任を持ち続けるものだし、その覚悟も持っているべきだ。
ちなみに、責任を負い続けるが、それを盾に、いつまでも子になにかを強要するのはNGだ。
つまり、ありふれた言い方だが、無償の愛ということになる。
 
子はどうか。
子も親同様に、常に責任は自分にある、と思っていないといけない。
それは、たとえ20歳を超えていなくても、だ。
 
経験ではなく、能力として大人と同レベルのものを持つ年齢(大雑把に言うと高校生くらいの歳)ならば、何かを犯してしまった時に、それを子自ら親の監督責任にするのは、単なる逃げでしかない。
 
事件があったときに、社会として見るのか法律に照らしあわせて見るのかは区別しないといけない。
 
法律は法律の専門家に任せるとして、社会として見るときには、自分が犯罪者、被害者、どちらの関係者でもない場合は、子が負う責任と、親が感じる責任は、それぞれに独立して存在する、ということを念頭におかなければいけない。
 
誠実に質問に答える親の姿をみて、親には責任が無いのに、と第三者がいくら言っても、本人は、あーそうか、責任はないのか、とはならないし、なれない。
当事者はそのくらい、理屈ではなく、よりシンプルに感覚で物事をとらえるだろう。
 
容疑者はしっかりと罪を受け止め罰を受けるとして、親がどういったカタチで責任をとっていこうとするのかを、同じ親という立場で見ていきたい。