日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

義務教育の限界

 
2日前の記事だ。
指導死、という言葉は初めて知ったが、こういったことが原因で自殺という最悪の自体をまねいたことは、これまでもあっただろうことは想像に難くない。
 
今回は暴力がなかったということを一つの特徴のように記事では捉えられているが、言葉の暴力があることはずっとずっと昔から知られている。
 
指導死。
言葉の通り、指導によって死をまねく事件。
当然防がなければならない。
 
関係者は主に、親、学校、そして本人。
 
こういう問題は、誰が一番悪いかということを決めても意味が無い。
正直なところ、親にも学校にも本人にも問題はある。
だから、各々は今後こういったことを起こさないためにはどうすればよいか、ということを考えるべきだ。
 
親は、自分の子どものシグナルを見逃した、という自責の念に駆られる。
もし兄弟がいたら、その子のシグナルは絶対に見逃すまい、と細心の注意を払うに違いない。
 
学校は、指導時の言葉選びや言い方の見直しを図る。
第三者によるチェックも入るかもしれない。
 
本人は、、、事が起きたあとはどうしようもない。
 

根本的な問題は、空気

 
さて、上述した内容は、一般論としてこれまで散々叫ばれてきた。
 
まさか、直接的な暴力さえふるわなければ、自殺においこむことなんてないし、万が一起こったとしても責任は問われない、と考えている教師もいない(はず)ので、暴力の有無での差異はほとんどない。
 
それでもこういった事が繰り返される。
 
そこには、もっと根本的な問題があるのではないだろうか。
それは、強制、強要の空気だ。
 
学校、もとい教育システムとして、義務教育を失くすことはできないかもしれないが、かといって、嫌でも毎日学校に通い続けることを「善」とする空気は、この時代にそぐわない。
 
小学生ならいざしらず、中学生、高校生にもなれば、インターネットで世界の情報に触れ、価値観を知るのが当たり前の時代だ。
 
そんな多様化する価値観のたったひとつだけを、さも正しいかのように指導されたときに反発を覚えるのは、至極自然な反応ではないだろうか。
 
しかしながら、教育を施す方が価値観の多様化を言い過ぎると、殆ど教えることがなくなるので、必然的に何らかの価値観に立脚した上での指導となる。
 
正直なところを言うと、どんな指導方法をとっても、それが「指導」である限り、それが嫌で自殺する人は出てくる。義務教育の限界だ。
 
この解決方法は、その場を離れさせることしかない。
そこにいつづけなければいけない、という強制、強要が問題を引き起こす。
 
親と本人にも同じことが言える。
学校に通うことは、まるで社会人が会社に毎日、たとえ嫌でも通勤し続けることと同じように大切だ、といった空気がないだろうか。
 
はっきり言うが、義務教育の学校に通うことと会社に通うことは全然違う
前者は国家が決めた義務(つまり強制、強要)、後者は自身の選択的自由だ。
会社にいくことが大切なのは、会社に言われるからではなく、自分でいくと決めたという責任があるからだ(だから嫌な会社はすぐに辞めても、社会的には全く問題ない)。
通勤と通学の共通点は、「ほぼ毎日通う」ということくらいしかない。
 
家族内では、嫌なことでも続けることが善、という名のもとに通学を強制する空気が蔓延していることが最も大きな問題だと考える。
 
集団行動の大切さを武器に、通学の大切さを訴える人もいるが、集団行動故にいじめ、その結果の自殺があるのも事実で、そのリスクを背負ってでも集団行動の大切さを身につけなければいけないとは、全く思わない。
集団行動が出来ない人は、死ななくてはいけないのだろうか?
 
極論は現実的ではない。
確かにそのとおりだが、起こっていることは極端なことだ。
人が自らの命を絶つことが極端で無いわけがない。
 
とはいえ、いきなり義務教育システムをなくすのは難しいし、通学することが全然重要じゃないということを言い始めるのも、飛躍しすぎだ。
 
しかし、考え方としてそう思っていることが、少しずつ変化を生む。
そもそも、空気は少しずつしか変化しないものだ。
基本的には学校に行ったほうが良いが、なにか気がのらない日はいかないという選択肢もある、ということを、学校、親、本人が発想し始めることろがスタート地点だろう。