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日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

いじめはなぜ起こるのか

考え方 教育

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戦争と同じように、いじめをゼロにすることは不可能だ。
しかし、それも戦争と同じように、少しでも減らそうとする方法を探ることが最も大切。
 
減らすためには、いじめ発生の傾向と予防対策を立てるのがセオリー。
 

いじめはどうやって起こるのか

 
いじめに関しては、いじめられる方にも問題がある、なんてことを言われることもあるが、転校生の方言、背が低い、親の職業といったことがいじめの原因になりえることを考えると、いじめられる方の問題を考えてもあまり意味がない。
 
いじめる方にとって見れば、その口実をあらゆるところから見つけてくるだけだ。
 
いじめる方はどうか。
 
家庭環境に問題があり、幼少期より親の愛情をもらわず育ったので、人の痛みがわからない故にいじめることに抵抗がない、といった、人の心を数式にあてはめたような分析をする人もいるようだが、そんなに単純な訳がない。
 
愛情をたっぷりもらった子どもがいじめる方になることだって必ずある。
愛情の注ぎ方が悪い、なんて言い出したらキリがない。
 
このように、いじめる方、いじめられる方にも、結局のところ目立った特徴はないのだ。
 
誰だって、いつだって、人はいじめる方にも、いじめられる方にもなる可能性がある。
 
いじめる方、いじめられる方に特徴がなければ、策の施しようが無いかと言えば、そんなことはない。
 

いじめが起きやすい集団、起きにくい集団

 
いじめは、その性質上集団が形成されているところに発生することは自明。
 
さらにいじめは小学校、中学校、高校、そして会社の人間関係の中で起こることが多い。
近所付き合いでもたびたび聞かれる。
 
一方集団であっても、大学や習い事での集まりの中ではいじめはあまり聞かない。
 
いじめが起きやすい集団と起きにくい集団の違いは何だろうか。
 
それは、集団への参加、さらに同一行動に対する強制力の違いだと感じる。
 
厳密に言えば高校は義務教育ではないし、会社も退職する自由はある。
近所付き合いに強制力も無い。
しかしながら、大学や習い事に比べると、その強制力が圧倒的に高いことは明らかだ。
 
ちなみに、大学に行った者ならば分かるだろうが、大学の場合講義ごとに出席する人が違うので、高校までの「クラス」という概念がない。
もちろん学部・学科はあるが、上述したように講義が皆同じわけでもないし、講義の時間以外に行動を共にすること(運動会や文化祭など)は少ない。
強制力は全くと言ってよいほど無い。
 

能力差の認識 

 
人にはあらゆる能力に差があり、コミュニケーション能力、もっと砕いて言えば、人とうまく仲良くやっていく能力もその例外ではない。
 
確かにコミュニケーション能力は、生きていくうえで必要だが、かといってその能力が低い人を、義務教育や皆勤至上主義の名のもとに集団に入れさせいじめが発生し、最悪の事態を招いたとしたら、本末転倒だ。
 
それに、コミュニケーション能力も、あるかないかという2段階ではなく無段階だ。
 
全くない人は確かに問題だが、平均よりは劣る、くらいの人の受け皿は、健全な社会としてはあってしかるべきだろう。
 
個人や家庭、教師レベルでできることと言えば、その能力差があることをしっかりと認識すること。
身長に差があるのは見て分かるし、成績の差もテストで分かるが、コミュニケーション能力の差は、そこにフォーカスしないと見えないし、そもそも差があることを知っていなければ、気づきようがない。
 
歌の歌詞にあるように、ともだち100人できたら良いが、できないとダメというわけではない、ということも認識するべきだ。
 
理想と現実は逆ではなく、両方認識していないといけない。
いじめをなくすという理想を掲げつつ、集団が形成されそこに強制が加わると、どんな人間たちであってもいじめは発生するという現実を知っていること。
 
そう捉えたあとに大人が行動に出るべきだと考える。