日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

教育する方こそ、より勉強するべき

 
こういった事実を知ると、溜息が出てしまう。
 
国家にとっての教育が、その後の国家の行末を決めることは間違いないが、その教育がこれでは、不安が募るばかりだ。
 
もちろん、これは一例であって、全ての教育関係者がこういうわけではないだろうが、小中学校における教育者の言動や思想は、子どもたちに良くも悪くも強く影響するので、本当に慎重になって欲しい。
 

プルタブ収集が始まった理由

 
自分は、アルミ缶のプルタブが缶から外れていた時代を知っている世代だ。
小学生の頃は、アルミ缶からとったプルタブをさらに2つに分けて、輪っかがある方をもう片方を使って飛ばす、という遊びが一時期流行した。
 
そういったこともあって、プルタブが学校内に散乱し、たしかにゴミ問題になったこともある。
 
その後、外したプルタブを缶の中に入れるのがマナー、といった時期もあった。
飲み終わった缶を振ったら、カラカラと音がしていたことをよく覚えている。
 
そんな時代に始まったのが、プルタブ収集運動。
お分かりのように、このときの運動の主旨は、リサイクルではなく(リサイクルという言葉もあまり知られていない時代だ)、シンプルに「危ない」から
プルタブの縁は結構鋭利なので、落ちていたら危ないのはどんな子どもでも分かる。
 
その収集運動のところだけが残って形骸化したことを示しているのが、現在のプルタブ収集運動。
 

やりがい?心の教育?

 
この記事の元となっているテレビを観ていないので、2次的に仕入れた情報ではあるが、ここで現場教師の言っている「やりがい」「心の教育」というところが大問題。
 
当たり前だが、人として生きていくのに、やりがいや豊かな心は大切だ。
しかし、何をもってやりがいとするのか、豊かな心を育むのか、ということを考えないと、本末転倒になる。
 
ブラック企業内では、必ずと言ってよいほど「やりがい」という言葉が使われる。
やりがいを何にどうやって感じるかというのは、限りなく個人的なことにもかかわらず、それを感じる「べき」だと言う。
 
そこでつかう言葉はやりがいではなく、命令だ。
「おまえの好き嫌い関係なくやれ」
という命令より、
「やってみたらやりがいを感じるはず」
という「やる気喚起」のほうが理不尽さが薄れるから、という理由でこの言葉を使っているとしか思えない。
 
心の教育は、より漠然としている。
収集する理由を説明せずに、ただただ収集させることが心の教育になるとは到底思えない。
それは、理由はともかく、言われたことは何でもやらなくてはいけない、という「考える力が欠如した人間」を創り上げるだけだ。
 
小学生の頃から天邪鬼だった自分は、当時先生や親から、
「大人になったらわかるよ」
と言われた事が多々ある。
そのほとんどが、大人になってもわかっていない
 
それは、自分がまだ大人になっていないからなのか。
それとも、はっきりとした理由がない逃げ口上だったのか。
 
子どもたちは意外と見抜いている。
だからといって、心配ない、とは言い切れない。
 
教育する方は、子どもたちと同じくらい、いや子どもたちよりもたくさん勉強する必要がある。
 
何度も書くが、教育が国家の行く末を決めることは間違いないからだ。