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日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

生死の問題を取り扱うのは、非常に難しい

現代の成熟した社会で、限りなく共通に近い倫理観は「生死」だろう。
死ぬことすら恐れない、という価値基準は、ほぼイコールテロリストや危険な宗教という言われ方をされてしまう。
(それらが共存している世界が現代なので、舵取りが難しい)
 
だからこそ、生死に関して書く時は慎重にならざるを得ない。
と書いている当ブログ記事も、気をつけて書こうと襟を正したところだ。
 
島根県の広報誌における内容に関して、町が謝罪した。
自殺は地獄へ、というコラムに対しての批判を受けて、ということだ。
 
ここからは、自分の推測でしかないことを踏まえて。
 

筆者の意向と、受け取られ方

 
このコラムの筆者は、自殺「した」人を貶すために、こういったことを書いたのではない。
自殺を考えている人、つまりまだ自殺していない人が、思いとどまるように、こう書いたのだ。
 
ニュース記事中にあるように、このコラムを批判した内容は、懸命に「生きた」人たちの尊厳を傷つけている、というもので、つまり既に自殺した人に向いている。
 
要するに、コラム筆者が伝えたいメッセージの対象となっているターゲットにたいして、受け手の中には身近に自殺した人がいる、というのは事実で、このネジレが今回の批判を生んだ、と見て良いだろう。
 
簡単に言えば、一部の読者には、この筆者が既に自殺した人に対して、「その人たちは残念ながら今地獄にいます」と書いているように受け取られた、ということだ。
 
幅広い読者がいることを知っているのならば、これは想像できる範疇だったかもしれない。
批判は真摯に受けとめるべきで、謝罪は当然の流れだろう。
 

自殺する人に対する考え方

 
一方、その伝え方に問題があったこととは別に、上述したように、日本は成熟した社会を形成しているので、自ら「死」を選択することに価値は見出さないことは疑いようがない。
 
それを社会としては減らしていく努力は当然なされるべきで、生死の問題ですら個人の自由だから放置、なんて言い出したら秩序もなにもなくなってしまう。
 
だから、社会としては、自殺を考えている人をなんとか説得して、思いとどまらせる努力をするのは、至極当然のことだ。
 
問題は、それをどうやって防止するかという手段、方法。
このコラム筆者は、地獄におちるから思いとどまるべき、という手段をとった。
 
自殺を考えている人はそもそも、現状を地獄と思っているからそういった選択を考えざるを得なくなっていることも多く、今回の批判を抜きにしても、この方法が効果的とは到底思えない。
 
しかし、だ。
自殺自体が、さも選択肢の一つとしてある、という風潮は絶対にさけるべきで、それは逆に言えば、自殺することにたいする徹底的なネガティブイメージを植え付けることが重要、ということになる。
 
堂々巡りのようになっているが、自殺に対するネガティブイメージを、どうやって植え付けるかが最重要課題で、これは「地獄に落ちると仮定する」といった一朝一夕的方法ではどうにもならない。
 
結局、自分のような庶民にできることは、死よりも生の方が輝かしい、ということを「思わせる」行動をとることしかできない。
太陽と風でいうところの、太陽だ。
 
 
ある程度の年齢になっているのもあるので、自分の周りにも自ら命を絶った知人が少なからずいる。
 
今彼ら、彼女らが地獄にいる、とは思わないが、自殺する直前にその意思を知っていたら、あらゆる手段を使っても止めに行くことが正しいことだ、という名のもとに、「死んでも地獄しかないぞ」という軽率な発言をしてしまうかもしれない。
 
生死がからむ問題は、最も感情を揺さぶるので、理性をもった態度を取れなくなるのも、この問題を複雑にしている要因だ。
 
つまり、もっとも理性をもって臨まなければいけない問題なのに、その瞬間は理性を持つことがもっとも困難、という矛盾が解消されない。
 
 
やはり、生死の問題は、正解がないので、この程度のブログを投稿では、支離滅裂になってしまう。