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日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

善行に勇気のいらない空気を望む

考え方
今日の記事。
 
人類、みな平等とは完全に嘘で、現実はみんな平等でない。
見た目も中身も、人によって全然違うし、生まれた環境(家族、国なども含む)をとっても平等とは言えない。
 
今なお紛争が収まりを見せない中東に生まれた赤ん坊と、日本で生まれる赤ん坊が平等と言えるはずもなかろう。
 
だから、私たちは平等ではなく、公平を目指すべきだ。
何かしらのハンデがある人も含め、みんなが幸せを追求できる権利を持てるように、という意味に近い。
 
冒頭記事は、公共交通機関でのことだ。
これも「みな平等」と言ってしまったら、お年寄りだろうが身体障害者だろうが妊婦だろうが、エネルギーがありあまる若者と平等なので、譲る必要なんて一切なくなる。
逆に、そこに差をつけると、筋違いな「差別」という言葉すら出てきそうだ。
 
そうではなくて、社会的弱者を、そうでないひとが少しずつ支えることによって、全体が良くなれば良い。
こういう理屈で、お年寄りや身体障害者、妊婦に席を譲ることは「善い行い」とされる。
 

善行は恥ずかしいのか

 
さて、前置きが長くなったが、今回の統計は、やはり残念だというシンプルな感想を抱いてしまう。
しかし、譲らない理由に「はずかしい」というのがないのは意外だ。
 
本音を言えば、小恥ずかしいという理由で、席を譲ることを躊躇する人は結構いるのではないだろうか。
しかし、それでは席を譲らない理由としては薄いので、もっともらしい口実を答えたというところが真相ではないか、と邪推してしまう。
 

善行を酷く断られたら、トラウマレベルになった

 
恥ずかしいということに近いのかもしれないが、記事中に出てくる数字、
「席を譲ろうとした相手に断られた経験があると答えた人は61%」
は、気になる数字だ。
 
かくいう自分も実は断られたことがある。
自分の場合は、ある老人男性に席を譲ろうとしたところ
「わしゃ、そんな年をとっておらん!」
と結構大きな声で突き返される、という手痛い目にあった。
 
断られたこともそうだが、老人が去ったその場所には、他の乗客が自分を憐れむ空気が蔓延し、それが恥ずかしくてしょうがなかった。
もちろん、自分も逃げるようにその場を後にした。
 
純粋な気持ちで「善いこと」をしようと思っているときですら結構恥ずかしいのに、この仕打だとその恥ずかしさはトラウマレベルで、今思い出しても嫌な気分になる。
 
自分はまだ席を譲られるような年ではない(、、と思う)。
しかし、そんな自分ですら、自分より歳下から席を譲られることがたとえあったとしても、素直にありがとうと言うだろう。
断るにしても、「ありがとう、でもまだ元気だから大丈夫」くらいのことは言う。
譲ってくれた人を恫喝するなんて、絶対ない。
 
席を譲る、譲られるにかぎらず、たしかに日常の中には「小さな親切、大きなお世話」といったことや、慇懃無礼なこともあるかもしれない。
 
しかし、それらを断ったり諭したりするときには、より細心の注意を払うべきだ。
さもないと、純粋な善意が恥ずかしさを超えて、勇気をもってやること、さらには怖いけど立ち向かうことなんかになりかねない。
 
純粋な善意を持っている人がスムーズにそれを行動に起こせるような世の中になればよいと思う。
 
 
昔海外に住んできたときのこと。
香港人と自分の二人で、バスの一番後ろに座っていたところ、老人が乗ってきた。
そのバスは前のドアから乗り込むのだが、その老人はのってすぐのところ、つまりかなり前の方に留まり、吊革をもって立った。
 
すると、自分のとなりの香港人はすくっと立ち(本当に「すくっ」という表現がぴったりだ)、大股で前方に立つ老人のとことに歩み寄ったかと思うと、席を譲る旨伝え、手を引いて後まで連れてきた。
 
日本では、ここまで「すくっ」とした善意を堂々と出せる人は見たことがない。
 
そういった空気ができていけばよい、と願う。