日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです

男はカッコイイ、女はカワイイ

朝の日課は犬の散歩です。

ここ一週間くらいは、幼稚園に通う娘が春休みに入ったこともあり、私、娘、犬の2人プラス1匹で散歩しています。

はたして娘の早起きはいつまで続くことやら。

 

犬の散歩をしていると、通学中の小学生に出会うことがあります。

その中には犬好きもいて、「触っていいですか?」と言いながら犬と戯れている様子を目にします。

朝からほのぼのした良い一日ですね。

 

と、それはさておき、小学生が「カワイイ」と言いながら犬を触ることもあるのです。

そう言いながら小学生が去った後、娘が一言。

 

「ポチ(犬の名前、仮名)は男の子だから、カワイイじゃなくてカッコイイだよね」

 

なるほど、男の子にはカッコイイ、女の子にはカワイイ、これらがふさわしい表現だということをどこかで知ったのでしょう。

絵本なのか、家族の誰かか、それとも幼稚園の友達や先生か。

 

幼稚園に通い始めた頃から、娘が親の目から離れる時間が急激に増えました。

幼稚園に通わせる理由は色々とありますが、その一つに育児軽減もあります。

だから、幼稚園に通わせることで娘が親の目を離れる時間が多くなることは必然です。

 

男の子にはカッコイイ、女の子にはカワイイ。

これらを私は妻が教えたことはありません。なぜなら、カワイイ男性もいるし、カッコイイ女性もいるからです。

そもそも、カッコイイ、カワイイという表現自体が曖昧で主観的ですよね。

カッコイイ、カワイイという定義が曖昧で主観的ならば、それらが男性に使う表現なのか女性に使う表現なのかも決められません。

 

一方、曖昧で主観的と言いつつ、傾向はあります。

Googleの画像検索で、カッコイイ人、カワイイ人、各々を検索すると、その傾向がわかります。

カッコイイ人ー画像検索

カワイイ人ー画像検索

見事に男女が分かれているのがわかりますね。

これがカッコイイ、カワイイの、社会がみなすイメージでしょう。

 

 

 

片想い (文春文庫)

片想い (文春文庫)

 

 東野圭吾さんの作品は、ミステリーに出てくるトリックの巧妙さもありますが、そのストーリーの奥にある強いメッセージが魅力で、好きな作家の1人です。

この作品もミステリー、犯人探しを楽しむことが出来るのですが、その背景に男女の問題に対するメッセージが強く込められていて、犯人探しよりもメッセージ性の方に心奪われる読者も多いのではないでしょうか。

私もその1人です。

 

表紙下部にメビウスの輪が描かれていますね。

これは作品中にでてくるある人物が、男女の概念をメビウスの輪のようなものだ、と表現したことによります。

つまり、男・女と単純にわけられるものではない、ということですね。

裏表ですが、つながっています。

絶妙な表現だと思います。

 

男性の中に女性的な「何か」があること、女性の中に男性的な「何か」があることは、容易に想像できます。

自分自身の意識に占める割合で、男性的な「何か」が占める割合が女性的な「何か」より少しでも多いと、意識としては男性となります。

それがかなり多いのが、数的には「普通の」男性なのでしょうが、中にはわずかしか差がない人もいるわけで、その人達は何かの拍子に女性的な「何か」が男性のそれを上回ることがあります。

人の意識なんて不安定なので、そのくらいの変化や多様性があるのは当然でしょう。

 

しかし、今のところ性別では男と女しかありません。意識中90%が男性の人も51%が男性の人も、同じ男性という括りになります。

 

さらに性同一性障害という問題もあります。これは生物学的な性と意識の性が違うことですね。その意識の性に上記のような状況が重なってくるので、男女性差の問題は複雑です。

 

 

上記した画像検索を見たとおり、言葉ではカッコイイ、カワイイは曖昧で主観的と言いつつ、あれだけの男女差があってしまうのが今の社会です。

しかし、私たちには理性があります。

数的にマイノリティーに属する人に対する想像を働かせる能力も備わっています。

数的にマイノリティーに属する人たちの情報を得ることもできます。

 

男女には差があります。

しかし、男女は単純にわけられない。

まずその意識が広まっていく世の中であってほしいと思います。

 

 

famo-seca.hatenablog.com

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