http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1985668.html
日本の教育は、とにかく「ならし作業」をして、そろえることを大切にしている印象があります。
冒頭で紹介したのもそれで、答えが正しいかどうかよりも、他の人とそろえることを優先しているのです。 何かしらで約分のことを知ったその生徒が、他の生徒とそろっていないことがだめなんです。
この場合は他の生徒よりも少し先を知っている例ですが、少し遅れている、つまり成績が若干悪い生徒も認めません。
結果、平均的なことが世渡り上手、ということになってきます。 もちろんこんなことでは、イノベイティブな人間なんて到底生まれません。
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少し大きな話になりますが、「そろっている」ことが大切な時代もありました。
戦後です。
国全体が貧乏なその時代は、みんなで一致団結してこの国を立て直すことこそが最優先だったでしょう。 みんなが足並みをそろえ、支え合い、焼け野原だらけだった日本は、今や世界有数の先進国になりました。
しかし、社会は変わり続けます。 そろえる精神によって作り出された先進国日本、その国に生まれや新たな世代は、国をたてなおすなんていう概念は全くありません。 そんなことを考えなくても、国がなくなる心配なんてないからです。
そうなるともちろん、個人の幸福を追求するわけです。 そして、個人の幸福はかなり幅があります。
幅があり、違いがあり、、、 それを前提に教育を施さないと、社会はずっと停滞したままです。 世界がずっと停滞していればよいのかもしれませんが、そう言っているうちに他の国はどんどん成熟していき、相対的に日本は退化していきます。 それでも良いのでしょうか。
そろえることが何でも悪いわけではありません。 ただ、そろえることを強要するのならば、やはりその根拠が必要です、少なくとも現代ならば。 根拠なしに、そろえることが大切だ、と言って納得してくれる時代はもうとうの昔に終わっています。
教育者はそこをもっとも大切にしてほしい。 つまり、全体をそろえることで全体の体裁が整う、といったことを盲信してはいないか、ということをしっかり考えてほしいと思います。
教育は国家100年の計です。