日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

あだ名で笑う人、傷つく人

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180515-00000012-pseven-life

難しい問題ですね。 いじめは当然なくなったほうが良い、全くゼロにするのは難しくても、できるだけゼロに近づくように努力するのが望ましいと思います。 そんな中、あだ名がいじめの温床になる可能性があるので、こういった対策がなされます。

あだ名にかぎらず、いじめ問題は、やっている方に罪の意識がないことが多い。事件が発覚したあとの加害者コメントで「そんなつもりではなかった」というのはよく聞きます。 もちろん、そのコメント自体が嘘ということもあるでしょうが、実際にそんなつもりでなかったというものも少なからずあるでしょう。 正当化できないのは当然ですが。

あだ名に関して言えば、傍から聞けばちょっと面白い、コミカルなあだ名で周りが笑うようなあだ名に関して、そのあだ名で呼ばれている本人は実は不快に思っている、ということが起こりえます。空気の力や同調圧力ということを考えれば、あだ名で呼んでいるという現象で周りが笑っていればそれが相手を傷つけている、ということには気づきにくい。

学校やクラスというのは閉鎖的なので、ニュースなどで完全に無関係者として聞けばとんでもないようなことでも、その中にいる人には気がつくことができない、ということが起きるのです。 昔は、いじられている生徒の葬式ごっこを、なんと先生も一緒になってやった、というとんでもないことが起こりました。

中野富士見中学いじめ自殺事件

この教師に情状酌量の余地は微塵もありませんが、冷静になって考えればこれがいかに常軌を逸した行為なのか、というのは閉鎖的な集団の中にいさえしなければすぐにわかったはずです。教師という職業上、根本的な悪人とは思えません。

話は大きく変わりますが、私の通った小学校には、今では理解しがたい風習がありました。 異性を呼ぶ時には普通、名字や名前に君・さんをつけるかあだ名、仲が良い者同士だと呼び捨て、といったバリエーションがあります。 私の通った小学校ではなんと、異性は「◯◯っていうヒト」と呼ぶのが当たり前だったのです。

これ、どういう現象かわかりますか?これは小学生ならではの「照れ」が原因です。 「◯◯っていうヒト」という呼び方は、その人のことを私は全く知らない、というアピールなのです。 これと比べれば、君・さん・あだ名・呼び捨てはこの順番で距離感が近くなります。

異性に対する照れが肥大化した結果、異性を全く知らない人だ、ということをアピールする呼び方「◯◯っていうヒト」が蔓延したのです。

小学生にとっては、小学校内が知っている社会の大半を占めます。だから上記したように、当時それに対して違和感は全く感じていませんでした。中学になって以降振り返れば、なんと馬鹿らしい風習だとわかりますが、渦中ではそんなことにも気付きません。

これによって誰かが傷ついたという事実はおそらく無いと思いますが、あだ名は誰かが傷つく可能性をはらんでいるので、注意が必要となるのは致し方ないのかもしれません。