勉強や学習という言葉から受ける印象は、どういったものだろうか。
- 机に座ってするもの
- 知識を増やすもの
- 難しいもの
- 正解があり、それを求めるもの
他にもあるかもしれないが、正直これらは全て間違っている。
というか、ごく一部でしかない。
社会人として最低限必要なレベルとは
よく大人は、学校で勉強したことなんて、社会に出たら役に立たない、なんてことを言ったりする。
それは確かにそうかもしれない。
小学生くらいまでの内容ならいざしらず、中学レベル、それ以上の学習内容を知らないと、社会を渡り歩いていけない、なんてことはまるでない。
因数分解を社会に出て使った人はどれくらいいるだろうか。
フレミング左手の法則を知らなくて困ったことはあるだろうか。
たしかに、それらの一部は職業によっては使うし、必要だろう。
しかし、必要な知識や技術は、職業によってぜんぜん違う。
結局、全ての人に最低限必要なことというレベルでは、大雑把に見ても小学生レベルまでだろう。
勉強や学習の定義には偏りがある
それでも、学校教育ではひたすら、最低限を超えた範囲を教え続ける。
しかも、内容は、全部とは言わずとも、上にあげた4項目にかなり偏っている。
1日中、国語や数学などの主教科を勉強していると褒められる反面、1日中外でサッカーをして遊んでいると、叱られることが多い。
しかし、これがサッカーのプロ選手を目指していたらほめられる。
学者や教授になるわけでもない人が、一日中机に向かって勉強しても叱らないのに、だ。
日本を含む先進国では、当然のように職業選択の自由が認められている。
そして、どんな職業に就くにしても、最低限必要な知識があり、その職業に特化した技術や知識がある。
どちらも必要だ。
前者は良い。多少の勉強嫌いでも、掛け算九九くらいは言える、というレベルを日本の初等教育は保てている。
しかし、後者は社会に出て、その職業に就くとき、就いた後に習得しなくてはいけない。
この行為は、間違いなく勉強であり、学習だろう。
勉強や学習の定義を再考
勉強や学習を、かなり大きく定義すると、現時点で知らないこと、出来ないことを知ること、出来るようになることと、その過程、と言えるのではないだろうか。
しかし、それらの行為には、エネルギーを使う。
日本語で言えば、やる気だろうか。
自分がやりたいと思うことは、エネルギーを惜しみなくつぎ込み、目標に向かう。
社会に出て求められることは、ほとんどこういったことだろう。
初等教育の大前提が、生きていくのに最低限必要なことの教育、だとすれば、上述した内容は、絶対に避けられない。
しかし、人は感情の生き物なので、嫌なことにはエネルギーをつぎ込めない。
つまり、嫌なことでもしなくてはいけないことを教えるのではなく、好きなことをとことんやり続けることの楽しさを教えるべきだ。
ちなみに、漢字では「楽しい」と「楽(らく)」が同じ字だが、これは誤解を生む。
楽しいことは楽とは限らない。
つまり、
- 楽でなくても楽しいと思えること
- 楽でも楽しくないこと
- 苦しくて楽しいこと
- 苦しくて楽しくないこと
がある。
どれが良いだろうか?