今日は、大阪の附属池田小学校事件の宅間守被告に死刑判決が下された日だ。
13年も前のことだが、はっきりと記憶している。
日本はアメリカと違って銃がないので、銃乱射事件が学校内で起こることはないし、今後も考えにくい。
それに、治安という意味で日本は先進国の中ですば抜けて高く、白昼、しかも特に安全である「はず」の学校でこんな悲惨な事件が起きるとは誰も予想だにしていなかった。
たった1件の事件で騒ぐのは愚かなのかもしれないが、当時この事件が与えたインパクトを考えると、至って自然な現象だったし、その事件は、たった1件と言うには悲惨すぎた。
この事件から1年後くらいに、自分の卒業した中学校近くに行くことがあり、せっかくなので寄って行こうと学校まで来た。
すると、休日でもないのに門が閉められている。
もしかして手で開けられたのかもしれないが、なんとなく開けてはいけない気がしてその場を去った。
しばらくたって同窓生に聞くと、案の定、附属池田小学校事件以降に、平日でも門を閉めたままにするようになったらしい。
用事があって学校内に入りたい場合は、電話でその旨伝える必要があるとのこと。
10年以上前に卒業した普通の卒業生が、懐かしんで学校を訪れることが「用事」だとは自分も思えないので、電話しようがない。
だから学校には入れない。
寂しい気もするが、学校側のこの対策を非難することはできない。
仕方のないことが世の中にあることを十分に知っている年齢だ。
自由とセキュリティーは、いつも隣り合わせだ。
規制やルールは少なければすくないほど良い。
しかし、その分危険性があがることは避けられない。
本当は、規制やルールなんかなくたって、各々が秩序立った行動を心がければ問題は起こらないのかもしれない。
しかし、多様性を認める現代社会において、犯罪スレスレのところを多様性とみなして許してしまう可能性は常にある。
多様性を認める大前提は、人に迷惑をかけないことだ。
しかし、この事件のように殺人事件だと迷惑をかけていることが明白だが、そこまで極端でないことだと、ある人にとっては迷惑、ある人にとってはなんともない、ということもあり、線引ができない。
すべてが多様性という言葉で片付けられるほど、人の感情は単純ではない。
人とのつながりもそうだ。
コミュニケーションを多くとることが健全なことだが、多ければ多いほど、その中に異分子が入ってくる可能性をあげることにもなる。
引きこもって、家族以外と全くコミュニケーションがないのは決して健全とは言い難いが、犯罪者に出会う確率もほぼゼロだ。
先日ある学者が言っていた。
世の中は理想通りにはいかない。けれども、みんなが理想の方を向いていないといけない。
本当にその通りだ。
これを短期的に見ると、どうしても黒白つけられない「グレー」になる。
中長期的に見ると、そのグレーの濃淡が変化し続けているだけだ。
学校の門が閉まっているという現実を受け止めつつ、開けっ放しにできる社会になってほしいという理想を捨てずにいたい。