日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

言葉はかわっていくもの

 
昨日のニュース。
 
言葉に関しては、正しい日本語かどうかということがことあるごとに話題になる。
 
記事中にあるご苦労様、お疲れ様問題も、少し前に
「お疲れ様でした、を目上に対して使うのは誤り」
といった記事が出たことがあり、じゃあなんていえばよいのか、と心のなかで静かに言い返した。
 
正しい日本語は当然ある。
一方で、言語の最大の存在理由は伝達、要するに「通じる」ということがもっとも大切なのであって、そこをクリアしていればとりあえず言語の最低条件はクリアしていることになる。
 
正しい日本語を使うべきと声高に叫ぶ人は、通じないことを懸念しているわけではなく、礼儀やマナー、伝統といった類のものに照らし合わせての意見を主張しているだけだ。
(一部、若者ことばでそもそも理解不能なものに対する不満もあるが)
 
その意見もなるほどと思うが、自分が実際に体験する日常の間違った日本語は、注意するほどのことでもないのでは、と考える。
 
その理由を示すには、礼儀やマナー、そして伝統のあり方から考える必要がある。
 
礼儀、マナーはそもそも、相手に不快感をできるだけ与えない為に存在するもので、正直それ以外の存在理由はない、と考えている。
 
ただ、相手が不快に思うかどうかということに幅があるので、できるだけ多くの人に不快に思われないようにするために、礼儀、マナーのレベルが高くなるのだ。
 
自分はお酌をされなくても全く不快には思わないが、不快に思う人もいるので、結局お酌をしていれば無難、ということになる。
 
しかしその不快感が、その礼儀やマナーを知っているから起こることだとすれば、おかしな話だ。
 
出会って挨拶をしなかったら、「挨拶をする」という礼儀を知らなくても不快感を感じそうだが、一方畳の縁を踏むことがマナー違反だと知らない人が、その行動をみて不快に思うかどうかは甚だ疑問だ。
 
つまり、相手に不快感を与えない為に存在する礼儀やマナーのはずなのに、礼儀やマナーの独り歩き状態になってはいないだろうか、と考えるのである。
 
言語の話に戻せば、冒頭リンクの記事にある「ら抜き言葉」、例えば「見れる」と「見られる」で後者が正解だという事実は確かにあるが、どちらが正解かをしらない人が「見れる」という言葉を聞いて不快に感じるとは到底思えない。
 
これが、日本語の間違いを注意するほどでもない理由だ。
 
尚、この例に限って言えば、日本語的に正しいかどうかは別にして、前者のほうが使いやすい。
なぜなら、「見れる」は「見ることができる」という意味しか考えられないが、「見られる」にはそれ以外に「見るの受け身」という意味や、尊敬語の「見られる」という使い方もある。
 
意味が特定しやすいというのも、文化庁の調査結果に影響をあたえているのではないだろうか。
 
また、伝統継承が理由でも、やはり注意すべきことでもない気がする。
言葉は、時代を超えて変わっていくものだ。
文化として語り注ぎたい日本語と、日常で使う日本語に差があっても違和感はない。
 
伝統を守りたい人は、貴様という言葉を目上の人に向かって堂々と使う勇気を持ってほしい。