年賀状は書かない。
これは、形骸化の一途をたどっているようにしか思えず、意義をあまり感じられないからだ。
年賀状を書く意義
年賀状を書く意義は色々とある。
まず、「年始の挨拶」という意義。
しかし、これは直接会う人ならば、特に年賀状で伝える必要はない。
普段ひきこもりがちの人に「直接会ってのコミュニケーションが大切」という意見の持ち主に限って、こういうときだけは「手紙・はがきの温かみが」などと言うが、手紙・はがきよりも直接会うことの方がコミュニケーションはスムーズにいくというのには賛成。
故に、特に年賀状は不要。
次に、「普段そうそう会えない人に、近況報告を兼ねて」というもの。
しかし、これもSNS発達以降は、特に意味を成していない。
年賀状でしかやりとりがなかったような疎遠になってしまったひとですら、今はSNSで近況を知ることができる。
こういう時代に、あえて年賀状で近況を報告する意義はあまりない。
「近況を報告するきっかけに、年始を利用する」という意義もあるかもしれない。
でもそれならば、別に手紙、はがきでなくても、メールやメッセージで十分だろう。
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そもそも、冒頭にも書いたように、年賀状は形骸化が甚だしい。
はがき裏面のほとんどを占めているのが複製の画像やイラストで、それだけではそっけないからという免罪の意味をこめて、一言そえる、といった具合。
本当に読みたいのは、その一言の方ではないのだろうか。
ちなみに、そんな自分には、こういった考えなので年賀状が数枚しか届かない。
しかし、それでも年賀状を送ってくれる人はいるもので、そういった人たちを否定するものではない。
やはり年賀状をもらえるのは嬉しいが、メールで来てもメッセージで来ても、同じくらい嬉しい、ということだ。
来た年賀状には、ちゃんと返信する。メールで。
これも、年賀状にすべきか、メールにすべきか考えたが、上述したように、画像やイラストではなく、書く内容の方を重視したいと思い、それに適しているのはどちらか、と考えた結果、メールにした。
これも上述したが、たしかに年始というイベントをきっかけに、普段は書かないような内容をメールする。
その分量は、とてもはがきに入る量ではない。
ある意味では、年賀状の意義を、はがきの年賀状よりもかなえていると自負している。
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年始から、批判的なブログを投稿するのもどうかと思うが、ブログタイトルからして致し方ない。
今年も、批判を怖れず、いろいろなことをそもそも論で考えていきたい。
強要を排除し、人の多様性を認識し、歩み寄りという概念を忘れない一年にしたい。