先日友人の家にて。
ハードディスクレコーダーに面白そうなテレビ番組を自動で録り貯めているようで、それがテレビで流されていました。
世界仰天ニュースという、タイトルのストレートさに逆に個性を感じてしまう番組ですが、結構人気番組のようですね。
その日番組内で紹介されていたのは、いまだ原始的な生活を続けるコロワイ族という部族です。
電気、ガスはありませんし、気候は熱帯雨林なので、衣服も最低限しか着用していません。
食べ物は川の魚や幼虫、コウモリなどで、この辺は先進国に生まれた人にとってはかなり衝撃的ですね。
人食いの儀式があると怖れられていたそうですが、今はその風習は無いそうです。
あういう映像を見ると、いかに自分達の生活が文明に支えられているのか、ということを思い知らされます。
現地の人達の笑顔はまぶしく、それは決して「苦しみの中の笑顔」などではありません。
充分な幸福感を得ている印象で、文明が発達している日本で生まれながらも、自殺に追い込まれる人が年間2万人以上いることなんかを改めて考えさせられます。
◆
私が最も印象的だったのは、ここまで文明から断絶されている部族にも、音楽があることです。
儀式のためなのか、その他にも使いみちがあるのかどうかは定かではありませんが、とりあえず何かしらを歌っています。
物理的な意味で言えば、音楽はサバイバルに何の役にも立ちません。
しかし、原始的な生活をしている人たちの中には音楽が存在しています。
結果的に言えば、物理的な意味以外で、音楽は必要なものなのかもしれません。
身につけているものが最低限ということは上にも書きましたが、その最低限の中にはアクセサリもありました。
これも音楽と同じく、サバイバルには何の役にも立ちません。それでも人はオシャレをするのです。
※それはオシャレではなく儀礼の一つなのでしょうが、サバイバルに直接役にたつものではない、というところが重要です。
音楽もオシャレも、人以外の動物社会には存在しません。
一方、サバイバル的なことは動物社会も人と同様です。
人が人らしくあることを認識するためには、動物との差異を見つけることが第一だと思いますが、その差異は、サバイバル的なこと以外の行動に見られると言えます。
音楽やオシャレはその筆頭でしょう。
しかも、文明から断絶された原始社会でもそれらが存在するということは、人が人でさえあれば、そこに音楽やオシャレがある、ということなのかもしれません。
考えてみれば、震災の時に多くのミュージシャンが被災地でライブを行いますが、歓迎されることの方が多いのも、同じことなのかもしれません。
音楽では、寒さもひもじさも解消しません。それでも人は音楽に耳を傾けます。
◆
私の仕事は音楽で、この先進国ではお金がないと生活が難しいので、つまりお金の為に音楽をやっている、とも言えます。
しかし、私を始め音楽に魅了されている人たちは、実は人がそもそも持っている音楽に対する欲求に身を任せているだけなのかもしれません。
そう思うと、また音楽が楽しくなってきます。