価値観の多様化、これは口で言うほど簡単ではありません。
日本は特に、色んな分野にガラパゴス化が顕れるように、異文化(異価値観)を受け入れることに慣れていない。
英語で道を尋ねる外国人に対して「日本なんだから日本語ではなしかけるべき」という意見もありますが、その外国人の母国語が英語ではない、ということも多々あります。それを想定できる人がどれだけいるのでしょうか。そういう人は、ギリシャに行っても英語で話しかけるべきではないんですが、わかっているのでしょうか。
それから宗教が日本にはあまり根付きませんね。タイムリーに年末年始ですが、クリスマスはまだしも、鐘をつくところと三社参りをするところが同じだと思っている人も少なくありません。しかも、それを知ったところで「へー」で終わります。
(ちなみに、その事自体は全く問題はありません)
だから、宗教観の違いで人の殺し合いが起きることを理解するのが、自分も含めてとても難しい。
宗教ではなくても、思想信条はやはり各々に差があり、それは国家間でも違ってきます。
国家同士で付き合っていくというのは、自分達の価値観を否定されるように見えることもある、ということを受け入れる必要があるということに他なりません。
それは妥協というより歩み寄りという言葉を使ったほうが前向きな気がします。
つらつらと書いていますが、今起こっていることにつなげると北朝鮮のことだったり中東のことだったりします。
どちらもやはり先の大戦に端を発している問題と言ってよいでしょう。
これらを、頭のおかしい奴らが他国(他人)に迷惑をかけている、という勧善懲悪的な見方をするのならば、アメリカあたりが強大な軍事力をもって制圧してしまえばよいのですが、それで問題が解決するとは到底思えないし、そもそもそれを解決とは呼びません。
なぜなら、鬼にも家族がいて、理由はともあれ家族を殺されて残された人には、必ず憎悪の嵐が吹き荒れるからです。これは間違いなく消えません。
北朝鮮も中東も、ミサイル発射やテロ行為を、頭がおかしいからやる、と言っている間は、相手も同じようにこちらを「頭のおかしいやつら」とみなし、武力行為をやめないでしょうね。
いわゆる正義論ですが、誰かが言っていたように、正義の反対語は悪ではなく、また別の正義、ということです。
私は、だから北朝鮮とも対話を続けていくべきとか、いや武力攻撃をも辞さない毅然とした態度が必要だ、と言っているわけではありません。
物事はそう簡単にはいかない、ということです。
私は政治家でもないし権力もないので、そこで結論をだす必要がない立場です。
あえて言えば、左手で握手、右手に剣ですかね。
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冒頭のリンク、これを題材に道徳の授業が進められたとのことですが、道徳の授業は結果がありません。弱きを助け、悪しきを罰す、といったわかりやすい倫理観が通じる世界は遠の昔に終わりました。だって誰が弱いか、誰が悪いかを誰が判断するか決まってないでしょう?
こういった授業が開かれることは悪くないと思いますが、くれぐれも現場の教育者はもっともらしい結果を子どもたちに教えることだけは避けてもらいたい。
他の科目(国語や算数)のように解答がない。それが道徳の唯一の教育できる側面だと思います。