日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

人を悪にするのは空気

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先日ちょうど友人とこういう話になりました。 「小学校のときあった帰りの会、って、あれいる?」

私は結構ひねくれた理屈っぽい小学生だったので、当時から帰りの会には疑問を持っていました。 この記事に出てきたようなことが起こったときに、その疑問はさらに膨らみまみました。

小学5年生の頃、詳細は覚えていませんが、ある男子生徒がなにかをやらかしました。 なにをやったのかはよく覚えていませんが、大したことではなかったから今でも覚えていないのだと思うし、今から書こうとしている内容においていえば、そこはそんなに重要ではありません。

帰りの会で、一人の生徒がその男子生徒のことを「困ったこと」のなかで発表しました。 男子生徒はそれを認め、起立して謝りました。

しかし、謝り方が悪い、という指摘が出たのです。 謝っているにも関わらず、顔が笑っている(にやけている)という指摘です。

クラスの雰囲気は、男子生徒がやったことよりも、その謝り方に問題がある、という方向へと変わっていきました。

謝るのに笑っているのは気持ちが伴っていない証拠だ。 特に悪いと思っていないんだ。

そういう非難の中で、男子生徒は謝罪を繰り返しますが、それでも笑っているという非難は止まりません。

実は、その男子生徒はそもそもの顔の作りが笑っているように見えるのです。 基本の顔がニコニコしている。 それが災いしました。でも本人はどうすることもできません。

非難は止まらず、遂に先生も加担しました。 そこで先生が何を指示たのかと言うと、男子生徒以外全員、一人ずつに、その男子生徒への非難を発表させたのです。 そのクラスは40人くらいいたので、40人一人ずつから「君が悪い」と非難され続けたのです。 まさに集中砲火です。

いくら言われても、その男子生徒は謝るばかりで、でも確かに笑っているようにも見えました。 最後の方では、ちょっと泣いていましたが、それでも表情だけ見れば笑っているようにみえました。

結局その帰りの会は、男子生徒を、先生も含め全員で非難する、ということを長い時間かけてやって終わりました。

私は、というと、私自身もそこでその男子生徒に対する非難を発表したのです。 完全に言いわけですが、その男子生徒と私を除く、先生をも含んだ全員が同じ批判をしている中で、自分の意見をまともに考えることなんて到底できませんでした。 その日の帰宅途中は、なんともいえない暗い気持ちになったのをよく覚えています。

あれから長い月日が経って、今考えてみてもやっぱりあれはおかしな空気だったと思います。 冒頭記事にある、まさに暴走でした。

いじめを苦にして自殺する子のことがニュースになったとき、いじめ側は「冗談のつもりだった」と言うことがあります。 冗談が、第三者から見たらとんでもない行為にまで及んでいるのに、当事者たちは気づかない、ということがあります。

私の上記経験を振り返っても、あのとき一人ずつ非難をしていった私たちのなかで、本当に自分で考えて非難をしていった人間は何人いたのでしょうか。 みんながやっている「流れ」つまり「暴走」に乗っただけの人が大半ではないでしょうか。

他にも、クラス全員である生徒の葬式ごっこをしたというとんでもない事件もありましたね。 その事件は、先生が4人も加担していたといいます。

生徒は自殺しました。

中野富士見中学いじめ自殺事件

三者としてこの事件を知ったら、なんて奴らだ、と憤りをおぼえるでしょう。 しかし、悪意を持った人間がたまたま同じクラスに何十人も集まり、先生もそうだった、という偶然なんて起こりません。 つまり、空気がその方向に暴走し始めたら、人は簡単に悪になる、ということです。 自分で考えることよりも、合理的な判断よりも、空気による支配のほうが上回るのです。

そんな暴走をとめる方法は絶対にありません。 ではどうすべきでしょうか。

暴走をとめるのではなく、そもそも暴走しないようにするのです。 暴走は空気が生みます。空気は人が集まって形成されます。

だから、人の集まりはほどほどに、ゆるくつながるくらいにしておいた方が良いのだと思います。 ドライだとか冷たいだとか言うことではなく、それがお互いの違いを認めることにつながるし、良好な関係を保てる唯一の方法だと私は思います。

小中高校にはいじめがあるのに、大学にはあまり無い、そして会社にはまたいじめがある、というのは有名な話です。 大学とそれ以外の違いは、集団を形成する力の強さです。