なんといっても、音楽の最大の特徴は、カタチがないことです。
物理的に言えば、それは空気が揺れているだけで、なぜか人はその揺れの組み合わせで感動し、その中には人生自体が大きく変わる人すらいます、、自分もですが。
カタチがないというのは、限りなく自由だということですね。物理的な制約がないというのは、自由の極みです。
そんな中で、自分が良いと思う音を自由に出して良い、というのが音楽の大前提にあります。
しかし、です。
自由って音楽においても、思想哲学の意味においても、ある程度の幅がありますよね。
つまり、「どのくらい自由なのか」であって「自由or非自由」ではないということです。
21世紀の自由論: 「優しいリアリズム」の時代へ (佐々木俊尚)
さて、もう一度音楽ということを考えてみます。
そもそも「音楽」と「音」の違いは何でしょうか。
実は明確な違いはありません。読んで時のごとく、音のなかで、それが「楽」しかったら「音楽」ですが、楽しいかどうかは主観的且つ個人的です。
こういうことを書いていると、極論にすぎないという人もいますが、実はそうでもない実例が身近の音楽にあります。
DJテクニックの一つであるスクラッチ。あれはレコードを手で無理やり回した時に出るノイズ、つまり雑音です。
単なるノイズを、ある時期から「かっこよく(=楽しく)」使い始めた結果、それは雑音ではなく、音楽の一部になりました。
ギターのひずみも同様です。スピーカーの許容を超えた音を出すと、音が割れてビリビリといった音が入りますが、ギターのひずみはそれを「かっこよく(=楽しく)」つかったものです。
さて、話が若干それましたが、つまり音楽は「楽しい」ということが前提になっています。
最低限自分自身は楽しくないと続けるのが困難、できれば一人でも多くの人に楽しんでもらいたい、という基準があるのが商業音楽です。
例として、ピアノのドからソまでの白鍵を全部同時にならしてみます。
おそらくほとんどの人が、音が濁っていると感じます。では間違っているのかというと、だれかがその濁り具合が最高という人がいる可能性は捨てきれません。
しかし、この「ほとんどの人」というのがポイントで、逆にほとんどの人が「良いなぁ」という音も存在します。和音で言えばドミソだったりドファラだったりですね。
和音だけでなくコード、音質、歌詞、構成など様々な要素各々に、ほとんどの人が「良いなぁ」と思うものがあり、それらがうまいバランスを取ると、それは良い作品となります。
というか、良い作品、とみなすのが商業音楽の基準です。
つまり、少なくとも商業音楽においては、音楽は自由であればあるほどよいとは言えません。
クラシックよりは自由度は確かに高いのですが、それにしたって多くの制約があり、それらを守らないと、ほとんどの人が「良いなぁ(=楽しい)」と思うものはできません。
メジャースケール、ダイアトニックコード、ナチュラルサイクル、、、
これらは、あきらかに音全体の制約を作るものです。その制約の中でどれだけ良いものを作れるか、自分だけでなく他人を楽しませることができるか、というところが商業音楽の難しいところだし面白いところです。
音楽って自由でしょう?と聞かれることが多いのですが、少し前に流行った言葉を借りればそれは、違法ではないが適切ではない、と言ったところです。
ちなみに、制約だらけで自由度が小さくなりすぎた音楽は、やっぱり楽しくありません。
つまり、自由の程度の問題なんです。