日々じゃーなる

日々の生活でおもったことをなんとなく、でも結構まじめに綴るブログです。 趣味は読書とビリヤード。仕事は音楽関係。

喪に服す

数日前に、生死の問題を取り扱うのは難しいという記事を書いたばかりというのに、一昨日同じ業界内の知りあいが、自らの命を絶った。
 
現代では、遺言すらSNSに投稿するものなのか、自殺する直前に書いた内容はどう見ても自殺をほのめかすものだった。
 
訃報というのは本来、近親者からなんらかの方法で広げていくものだが、不思議な話で、それすら一発で「シェア」できるのだ。
 
それが良いことかどうか、自分にはわからない。
多分誰にもわからないだろう。
 
本当に残念ながら、全てを知ったのときには、もうこの世の人ではなかった。
 
知り合いと言っても、ギリギリ面識がある程度なので、ショックではあるものの、なんと冷静さを保っている。
 
なぜ最悪の選択をしたのか。
理由は借金だ。
 
よく聞く自殺の原因だが、よく聞くことでも、それを予防したり、とどまらせたりすることはできない。
 
人が考えて作り出した「お金」が理由で、人が亡くなる。
かといって、今日本、世界からお金を取り除いたら、おそらくより多くの人が亡くなる。
 
だから、その犠牲は必然、といえるほど人の感情は理論通りには働かない。
 
どんなことが起こっても、それを自分の糧に生きていくことこそが大切。
では、今回の件から何を学ぶべきなのだろうか。
 
音楽業界の闇。
お金が人を殺すこと。
情報拡散の善悪。
 
どれも、イマイチ解せない。
結局、やはり人の生死は捉えがたい。
 
悲しいが、生死は捉えがたい、ということを再認識することしか学べない。
 
 
自分は、あの世の存在や霊魂などは、まったくもって信じていないし、信じたところで何も変わらない。
変わるわけがない。
 
亡くなった方に「安らかに」とか「RIP」とか言う表現を使うことはある。
しかし、他の人はどうかわからないが、その場の雰囲気でそういう表現を使うことはあっても、それは通過儀礼以上のなにものでもない。
 
自分は、喪に服す。
喪に服すとは、死を悼み、身を慎むことだが、自分にとっては「考える時間」だと思っている。
 
しっかり喪に服すことにしよう。
自分は間違いなく現実世界に生きているから、あの世で安らかに、などと考える暇があったら、この現実をどう受け止め、歯を食いしばって、明日からの毎日をどう刻むか、ということに悩む自分でありたい。
 
それは、悲しさや辛さからの逃げだ。
そんなことはもちろんわかっている。
 
わかっていても、そう思う。
それだって、人の感情に違いない。